2012年10月27日土曜日

堀越学園で働く(その2)

1994年5月、前の年から決まっていた日独楽友協会の演奏旅行がゴールデンウィークに行われ、私は連休明けに再び高崎芸術短期大学に出勤した。相変わらず、月曜から金曜、朝8時には「朝礼」に間に合うように出勤した。授業の準備などに費やせる時間は実際には非常に僅かであり、ほとんどの時間は組合対策の会議、「高校生国際コンクール」の準備、高崎駅前に作られた「国際教育研究所」の手伝い、そして大学を4年制化するための小池学長の構想を口述筆記することなどに費やされた。学長の構想は常に変化していくのでとりとめもない上に「学生は授業の一環として作務(修行として働くこと)を行い、学費を廃止して学内で自給自足する」などといった、非現実的な物だった。

主にオーケストラの授業に使用するための楽器、楽器室の管理を任された私は、いくつかのとんでもない事実を発見する。

第一に、楽器は「ほぼ」管理されてなく、購入時の台帳くらいしかリストも管理台帳もなかった。しかも、購入の記録があるのに存在しない物、購入金額のわからない物、寄付されたり、借りたままになっているため、台帳に存在しない物が沢山あること。つまり、台帳と現物がまったく一致しないのである。

次に、二カ所ある楽器庫、倉庫は凄まじい湿度で、民族楽器などの中にはすでにかなり損壊したり、カビの固まりとなっている物があった。それらの中には人の頭蓋骨で作られた太鼓など、かなり特殊な物もあった。仏門に入っており後に「小池大哲」という出家名まで得た、小池氏らしくもないぞんざいな管理であった。

早速、除湿器4台の購入を要求した。私以前に誰も思いつかなかったのが信じられないことだが、どうやら楽器室には授業の前に学生に勝手に楽器をとりに入らせ、授業後再び返却させていたらしいこと、楽器を学外に持ち出すにあたり、台帳も無しに行っていたらしいことも判った。2リットルの除湿能力のある除湿器4台は、毎朝水を捨てに行っても、翌朝までには再び満水となって止まっていた。楽器室の水を捨てに行くのが私の日課となったが、大きい方の楽器室の湿気についてはほぼイタチごっこであることが後に判った。

「組合」に加盟している教授と教員3名は、別棟に隔離されており「朝礼」にも現れなかった。「朝礼」は組合に加盟していない教授と講師のみで行われ、お誕生日席に座った学長がとりとめもない話をして、全員が拍手喝采をするという、どこか独裁国の閣議のような茶番が毎朝繰り返された。

私が与えられた研究室には私の他、創造学園大学最後の学長となった井上晴彦氏(当時教授)、声楽科のS教授、それに管理システムを開発しているTさんがいて、合計4人で同じ研究室を使っていた。Tさんはかつて、私と同じように講師として招かれながら翌年には授業から外され、研究室に閉じ込められてシステム開発を押しつけられていたのだった。Tさんから、学内の事情をいろいろ聞かされた。そして、楽器や楽譜、資料などは「学長に気に入られているうちに予算要求してしまった方がよい」とも言われた。なぜなら、ほとんどの講師は学長がどこからか気に入って「高崎に骨を埋めるつもりで来て下さい」などと言われて赴任し、中には教授で呼ばれて家族と共に赴任し、マンションなども買ってしまい、その後1年もしないうちに契約を打ち切られてローンが支払えなくなっているような人もいるらしい。

(続く)


2012年9月21日金曜日

京都市交響楽団(13)         裁判の京都地方裁判所への移送と、第1回口頭弁論のお知らせ

指揮者広上淳一、京都市と京都市交響楽団ゼネラルマネージャー平竹耕三らに対するパワーハラスメントと退職強要についての損害賠償請求事件(東京地方裁判所平成24年(ワ)2981号に関する新しいお知らせです。

去る6月東京地方裁判所から裁判の京都地方裁判所への移送の決定が出ました。東京地方裁判所への即時抗告は、私の手続きに関する無知から郵送で行うべき所を(すでにウィーンにいたことから期日が間に合わないと言うこともあり)ファックスで行ったことから無効となりました。

私が夏の間エストニア、オーストリアに滞在していたことから、第1回口頭弁論の期日がなかなか決まりませんでしたが、この度9月28日(金)午前10時10分より、京都地方裁判所第304法廷に決定いたしましたのでお知らせいたします。新しい事件番号は京都地方裁判所平成24年(ワ)1668号となります。

本件に関しましては、大変多くの皆様、見ず知らずの方からまで励ましのメールやお手紙を頂き、大変感謝しております。しかし、この事件によって仕事と収入のほとんどを絶たれ、本人訴訟で臨んでいる訴訟は今後も大変厳しい物となりそうです。皆様の物心両面によるご支援に、改めてお礼を申し上げますと共に、今後はこの裁判を是非傍聴していただけますように、お願いいたします。被告らは弁護士を依頼して、私に数々の「非行」があった旨、甚だしい虚偽の主張をしておりますが、もとより出廷の意志などない物と見え、今後、法廷において被告の主張がいかにでたらめな物であるかを立証していきたいと考えております。

その課程においては京都市交響楽団が今日までいかにでたらめな運営を行い、多くの人を傷つけ、市民の血税を浪費してきたかについてもこのブログと併せて主張して参ります。

まさに京都市・門川市長らは財政再建団体すれすれの京都市の財政も顧みず、日本の近代建築として重要な建物である京都会館を取り壊して100億円以上の税金を投入して「オペラハウス」を建設しようとしていますが、この様な浪費が続けば京都市の財政は破綻し、京都市交響楽団の予算が真っ先に切り詰められることは明らかです。

裁判を傍聴していただければ、私と被告のどちらがでたらめな主張をしているかは自ずから明らかになると思い、傍聴人の数が多ければ多いほど、被告にはプレッシャーであると思います。京都市交響楽団の関係者、京都市民、音楽と文化に興味のある皆さんに、是非傍聴をお願いいたします。

2012年5月27日日曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(7)


しかし、このような事件で弁護士を立てずに勝訴できたのは幸運でもある。主張が正しいからといって必ず裁判に勝てるわけではない。この事件の裁判中にインターネットで著作権関係の判例を検索していると「バドワイザー商標裁判」なるものにであった。バドワイザーは日本ではアメリカのビールとして知られているが、元々「バドワイザー」とはチェコ西部の都市チェスケ・ブデオヴィツェのドイツ語名Budweisの所有形Budweiserを英語読みにしたものである。アメリカのビール会社アンハイザーブッシュは19世紀末に数百年の歴史を持つチェコのビール(1262年創業)、Budweiserの名を借りてビールを醸り始めたが、飲み較べた事のある方にはお判りのとおりこの2つの製品はにてもにつかない代物である。ヨーロッパではアメリカの「バドワイザー」がこの名前でビールを販売することはできない。ところが数年前関西のある業者がチェコから本家本元のBudweiserを輸入し、日本で販売を試みたところアメリカバドワイザー社からクレームが付いた。どうやらアメリカの方が日本での商標登録を先に行っていたらしいのだ。しかしこの件で日本の裁判所はアメリカのビール会社勝訴の判決を下している。事情を知るものにはいかにもグロテスクな判決であるが、裁判とはやはり水物なのである。

さて、この裁判にあたって私が意外に感じたのは、シュトラウスの著作権について2002年に日独楽友協会が争うまで、誰も争おうとしなかったことだ。日本での音楽著作権の保護期間が作曲者の没後50年であり、例外は連合国の作曲家に加算される「戦時加算」だけであることを知っていれば、シュトラウスの作品に戦時加算が行われることは不合理なことに誰でも気が付くはずである。日独楽友協会のような小さな団体がシュトラウスのオペラを上演することは容易なことではないが、全国のプロフェッショナルなオーケストラ、歌劇団体、ホールの主催事業などとしてシュトラウスの作品は頻繁に上演されてきたはずである。なぜ誰もこのことに疑問を投げかけなかったのだろうか。日独楽友協会は私が代表を務める小さな団体で、赤字を出せば私が持ち出さなくてはならない。しかし、大きな団体の場合、特に、支払いを行う担当者自身の懐が痛む訳ではない場合、不正な請求ではないかと疑わしい場合も払ってしまっていたのではないだろうか。「支払いなき場合法的手段をとらざるを得ません」などという但し書きが付いているとますます、現場の担当者は自分がトラブルに巻き込まれるのをさけようと、納得がいかなくても払ってしまったのではないだろうか。不正請求とは言ってもどうせ本人の懐は痛まないのであるから、個人をターゲットにしたものほど反発もなかったのだろう。しかし、目先のトラブルをさけようと団体の予算や税金を不正に支払ったのでは背任行為である。こうした精神風土が総会屋や暴力団につけ込まれる原因ともなったのである。

著作権を扱う専門家の間では少々話題となり、いくつかのホームページに判決文の全文が掲載されているこの事件についてマスコミでほとんど報道されなかったのも意外である。いくつかのオーケストラの事務局やライブラリアン、新国立劇場の顧問弁護士といった人たちからも判決文や契約書などを見せてほしいと依頼の電話があり、わざわざコピーをとって送ってあげたりしたがその後何の挨拶も経過の説明もない。この国のモラルにはがっかりさせられることが多い。

2012年5月24日木曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(6)


日本ショット社は期限ぎりぎりに控訴する。一審では若い弁護士であったが、控訴審では著作権問題のベテラン弁護士を立ててきた。控訴審では前述の争点のほか、音楽著作物の譲渡の法的性質、音楽出版社の利用開発機能の一般的な著作権事案との相違点などを主張してくる。
控訴審は2ヶ月あまりで結審し、6月19日に再び日独楽友協会全面勝訴の判決がある。大筋では一審判決と同じ判決理由であるが、東京高等裁判所は以下の点において、より合理的な判断を下している。
(前略)仮に,控訴人の主張するような,独占的管理権をフュルストナー・リミテッド,ひいては,控訴人が有していたとしても,戦争という特殊な社会情勢のため,フュルストナー・リミテッドないし控訴人が,本件楽曲の著作権を日本において行使し得ないという状況の下では,日本において同著作権を行使する権利を,リヒャルト・シュトラウスに認める,というのが,本件基本契約についての合理的解釈であるというべきである。(後略)

すなわち戦争中の著作権の実際的な所在について、私の主張がより認められたことになる。
原告は上告するが2003年12月19日、最高裁判所第2小法廷の4人の裁判官が、上告審を受理しない決定をし、高裁判決が確定する。1年半足らずのスピード判決でもあった。私は自分ですべての書面を書き、相手方の書証を読み、ドイツ語や英語のものは相手側の訳によらずに翻訳もした。裁判所にも何度も通うことになったし、資料を集めたり六法全書を読んだりと膨大な時間を費やすこととなった。しかし、弁護士を代理人に立てることはなく、どうしてもわからないときは1回5千円の相談料を払って数回相談に行っただけである。費やしたお金は10万円にも満たないだろう。請求された88万615円も払わなくてすんだ。対するブージー&ホークスとその代理店である日本ショット社が失ったものは大きい。有名な弁護士を代理人に立て、資料を取り寄せ、イギリスやドイツの弁護士に原告よりの意見書をいくつも依頼し、欧文の書証は翻訳事務所に依頼して翻訳させたのだろう。裁判に費やした費用だけで数百万円は下らないだろう。そしてこの裁判の結果、2011年まで著作権を主張していたシュトラウスの中期のオペラ(サロメからアラベラまで)と後期の作品(4つの最後の歌、メタモルフォーゼンなど)を含むすべての作品について日本での著作権が終了していることが確認された上、同じ状況で著作権を主張しているフィッツナー、バルトーク、ワイルなどの作品がグレーゾーンとなった。さらに、2000年1月1日以降に徴収した著作権料などを返還しなくてはならなくなった。1994年に来日したウィーン国立歌劇場が「薔薇の騎士」6回分の著作権料としてブージー&ホークスの代理店に支払った金額が2348万4000円だったことを考えると、これらの合計は少なくとも数十億円に上ると思われる。日独楽友協会の勝訴によって、これほどの国富が流出することが防げたかと思うと大変に誇らしい気持ちになる。

2012年5月15日火曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(5)


2003年2月28日、東京地方裁判所で判決が言い渡され、結果は日独楽友協会の全面勝訴であった。

主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。

(以下判決理由から抜粋・判決全文はこちら
戦時加算が認められるためには、昭和16年(1941年)12月7日の時点において、連合国又は連合国民が著作権者でなければならず、単に連合国又は連合国民が著作権の管理を委託されていたに過ぎない場合は含まれないものと解される。
リヒャルト・シュトラウスとフュルストナー社の契約書、第8条に記載されている「übertragen」という語は、ドイツ語では、「譲渡する」という意味と「委任する」という意味がある。しかし、上記のとおり、同契約書において、リヒャルト・シュトラウスは上演権を自分に留保していること(7条)、リヒャルト・シュトラウスは、アドルフ・フュルストナー社に対して、リヒャルト・シュトラウスの名前で上演権に関する契約を締結する権限を与えているが、アドルフ・フュルストナー社は、上演権の対価をリヒャルト・シュトラウスに代わって取り立てなければならないとされており、リヒャルト・シュトラウスは、このために、アドルフ・フュルストナー社に代理権を与えるとしていること(8条)、リヒャルト・シュトラウスに上演権の譲渡権及び管理権が留保されていること(8条)からすると、「übertragen」という語は、「譲渡する」ではなく「委任する」という意味に理解するのが相当である。なぜならば、上演権がアドルフ・フュルストナー社に譲渡されたのであれば、アドルフ・フュルストナー社は、当然に自ら上演権に関する契約を締結できるはずであって、上演権の対価をリヒャルト・シュトラウスに「代わって」取り立てたり、リヒャルト・シュトラウスから「代理権」を与えられたりすることはないはずであるし、リヒャルト・シュトラウスが自己に上演権(上演権の譲渡権及び管理権)を留保しているということもないはずであるから、このような契約は、譲渡契約ではなく管理委託契約というほかないからである。そうすると、本件楽曲については、昭和16年(1941年)12月7日の時点において、連合国民が著作権者であったとは認められないから、原告の戦時加算の主張は認められない。
したがって、本件楽曲については、既に著作権の保護期間を経過したものと認められる。
よって、原告の請求は、理由がないから、棄却することとし、主文のとおり判決する。

裁判所の判断の決め手となったのは1912年のリヒャルト・シュトラウスとフュルストナー社の契約書の第7,第8条である。特に「übertragen」という言葉が「譲渡」を意味するか「委任する」を意味するかが争われた。この契約書ではこの言葉が「委任」を意味することは明らかであったが、原告側の弁護士はこの言葉が「譲渡」を意味していると強弁したことが裁判官の心証を害したのではなかろうか。法律家の多くがドイツ語を学んだ経験があり、著作権事件を多く扱えばこの手の契約書も見慣れているはずであるから。
(以下はシュトラウスとフュルストナーとの契約書から第7条、第8条の部分)

  






 

2012年5月12日土曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(4)

やむを得ず、滞在中のブダペストから手書きの答弁書をファックスで東京地方裁判所に送る。日本ショット社は著作権の根拠となる書類を提出し、こちらは納得がいく説明をすれば著作権料は支払うという内容である。しかし、それにしても敗戦国の作曲家の作品に「戦時加算」が適用されるのはやはり納得がいかない。敗戦国の作曲家が連合国の出版社に著作権を売り渡せば「戦時加算」が適用されるものだろうか。しかも、今回の権利関係の移転はシュトラウスのあずかり知らないところで起こっている。ブージー&ホークス社がフュルストナー・リミテッドを買収したのは1943年のことだが、ドイツとイギリスは1939年9月1日から交戦状態にある。ドイツと同盟国であった日本におけるシュトラウスの著作権が1939年9月1日以降もイギリスの出版社に管理されていたとは考えられない。そのようなことがあればすぐに在日ドイツ帝国大使館から猛烈な抗議があったことだろう。ましてやこの時期にシュトラウスは「Japanische Festmusik」のような作品を作曲しているのである。もう一つの疑問ははたしてシュトラウスが演奏権を含めた著作権のすべてを出版社に売り渡したかどうかである。「ナクソス島のアリアドネ」は初稿が1912年に完成し、今日演奏される版に改作が行われたのが1916年のことである。このころシュトラウスはフュルストナー社以外の音楽出版社との関係が極度に悪化しており、その原因は音楽出版社が演奏権に関して出版とは別の権利を認めようとしなかったことにある。このことがベルリンの演劇評論家アルフレート・ケルの毒舌たっぷりの歌詞による1917年の歌曲集「Krämerspiegel(小商人の鏡)」の成立の動機となった。そうだとしたらシュトラウスが出版権以外の「演奏権」をこの時期に著作権とひとまとめにして出版者に売り渡したというのはいかにも不自然である。

第1回の口頭弁論は8月30日に行われたが、私は10月半ばまでハンガリーに滞在していくつかの演奏会を指揮することになっていたので答弁書を提出しただけで出廷しなかった。第2回目は帰国後の10月30日に弁論準備手続(法廷ではなく小さな部屋で裁判官を交えた3者で行われる)が行われたが、ショット社側の弁護士はこのときにやっとシュトラウスとフュルストナー社の契約書を提出し、裁判官から「今までこれを出さずに裁判を起こすのはおかしい」と叱責される一幕もあった。ショット社は1912年にシュトラウスとフュルストナー社の間に交わされた契約書の原文を提出したが、全文の翻訳は添付されていなかった。おそらく古いタイプ打ちの契約書を翻訳業者が読めなかったのだろう。この手の文章、特におんぼろのファックスからはき出されてくるかすれたタイプ打ちの手紙などを読むのは私の得意技である。この契約書はきわめて明解な、口語に近い現代ドイツ語でタイプされたもので、その内容は明らかに私にとって有利なものだった。すなわちその第7条と第8条では以下のように取り決められている。

§7この作品の上演権は、音楽の面からも、台本の面からも全面的になおかつあらゆる国々、あらゆる言語においてシュトラウス博士が保留する。(後略)
§8シュトラウス博士は前記の作品の販売と上演権の管理を作品全体かその一部かにかかわらず、この作品が法的保護を受ける期間内において、また第9項に別段の取り決めがない限り、アドルフ・フュルストナー社に委任する。それゆえアドルフ・フュルストナー社はシュトラウス博士の名において上演権についてそれぞれの劇場らと交渉し、上演権に関する契約を締結し、彼のために上演権料を徴収することとする。(後略)

つまりシュトラウスは上演権に至るまでのすべての権利をフュルストナー社に売り渡してはおらず、上演権の管理を同社に任せていたにすぎないのである。
原告側は反論で『同契約8条に使用されている「ubertragen」(下線は筆者)(注:本当はübertragen)は一般に「譲渡」を意味する単語であり(甲14),被告の主張するような「『作曲家の名において』何らかの役割を任せる」という意味に曲解できるものではない』などとこじつけようとするが、こちらはドイツ語の専門家である。契約書のこの部分の意図するところは明白である。

また、原告が同時に証拠として提出したドイツ・ショット社の代表、ペーター・ハンザー=シュトレッカー氏の書簡には『ドイツ語の"Urheberrecht"は英語の"Copyright"とは異なり(中略)日本の「著作者人格権」という名のもとに言及され、出版社に権利が移転されることはありません』『ここでいう譲渡とは、日本法の下では、この作品のCopyright(著作権)をフュルストナーに譲渡した、ということと同じ意味を持ちます』と記されている。これにより原告の権利がそもそも出版・販売権のみに制約されていることが却って明らかになっている。さらにこの作品のスコアのはじめのページにも“Copyright”と記されているだけで、“All rights reserverd”とか“Auffhürungsrecht vorbehalten”といった記載は見られない。
さらに原告は『また,原告は日本におけるJASRACに限らず,その管理する地域の諸外国の音楽著作権管理団体に本件楽曲の「著作権者」として登録されており,世界的にも原告が本件楽曲の著作権者であることは周知の事実となっている。現に,新日本交響楽団(注:実際は新日本フィルハーモニー管弦楽団)は本件楽曲の演奏に際し,特に原告から要求を受けなくても当然のように上演の許諾を得る手続をとっている』などと主張する。しかし、この件は後になって担当者が事務局長の許可を得ずに独断で許諾申請を行っていたことが発覚する。

さらに不自然で矛盾しているのが以下の一文である。
(前略)『従って,本件楽曲は,作曲したのはドイツ国民であるリヒャルト・シュトラウスであるが,第2次世界大戦中に日本でその上演をするためには,対戦国である英国の法人である原告との間で上演権の交渉をし,許可を得なければならず,作曲家であるリヒャルト・シュトラウス本人を含め,他に許諾をする権利を有するものは日本国内はもちろん,世界中のどこにもいなかった。従って,2次世界大戦中に本件楽曲が許諾を受けて日本で上演されたとは考えられず,本件楽曲の著作権は保護されていなかったのであるから,実質的にも戦時加算を受けることはなんら不合理なことではない。
被告は,著作権料が旧枢軸国のドイツ国民であるリヒャルト・シュトラウスないしその遺族に支払われることを指摘し,本件楽曲の著作権が戦時加算の対象となることに疑義を唱えている。しかし,前述のとおり第2次世界大戦中に日本国内で本件楽曲の上演について許諾を与えることができたのは対戦国の英国法人である原告のみであり,その結果第2次世界大戦中に日本では本件楽曲の著作権は保護されていなかったのである。従って,日本国内において本件楽曲が上演された場合にその上演料がリヒャルト・シュトラウスないしその遺族に支払われる可能性も,実際に支払われた事実もないのであるから,被告の主張はその前提において失当である』。???

なぜ、演奏されなかった楽曲の著作権が「保護されなかった」のだろうか。許諾を受けずに演奏され続けたのなら「保護されなかった」とも言えようが。
その他にも原告の記述には当初より不正確な記述や誤記、誤訳、誤読が多く(「リチャード・シュトラウス」、「新日本交響楽団」など)原告の語学力や音楽、歴史に関する知識の無さ、商取引上の常識の欠如からしてもその主張は到底信用にあたるとは思えないのである。これでは、原告の送付してくる書類を見たり、原告の手法を見て、原告は外国語や法律の条文を自らに都合の良いように勝手に解釈して、これを元に詐欺、恐喝行為を行っている会社と思われても止むを得まい。

また原告は「しかし、戦時加算の趣旨は、第2次世界大戦に伴い著作権の保護が受けられなかった著作物について、その保護期間を延長することにある」と述べている。まさに原告が述べているように、第2次大戦中我が国でこの作品を(許諾を申請するか否か以前に)演奏しようと試みた者はいなかったが、「許諾を与えるべき著作権者が交戦国の出版社だったために許諾を申請できるような状況ではなく、その為に頻繁に上演が断念されて、本来得られるべき利益が失われた」(遺失利益が存在した)のではない。むしろ、リヒャルト・シュトラウスは同盟国ドイツを代表する作曲家だったため、1940年には皇紀2600年を祝って「Japanische Festmusik」の様な作品も初演されているように、我が国でも演奏されることが多かったのであり、当時の社会情勢からして、もし我が国で何者かが「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しようと考えたならば、敵国の出版社の許諾など受けようとは決して考えず、同盟国のドイツからパート譜を調達したであろう。この作品が当時演奏されなかったのは社会情勢や当時の我が国の演奏家の技術的水準の問題であったと考えられる。従って原告には当初より遺失利益は存在せず、仮に上演権の管理を著作権とは分離した独自の権利として原告が管理していたとしても、そのことは戦時加算の対象とはなり得ない。さらに、著作者である作曲家が原告の権利を実際に承認したのは終戦後の1946年1月であることも原告の提出した証拠によって裏付けられている。従って仮に遺失利益が存在してもそれは作曲家自身であって原告ではない。

(続く)

2012年5月10日木曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(3)

知人の弁護士のアドヴァイスは残念ながらがっかりするものであった。「杉山さん、それは払っちゃった方がいいよ」と言うのである。彼が言うには「費用対効果」の問題として係争金額はたかだか100万円。裁判になればお互い弁護士費用だけで50万円は下らないので、和解すると言って相手に20万円ぐらい払えば納得するだろうと言うのだ。それではこんなお粗末な書類で大金を請求してきた相手の主張を認めることになってしまう。「先生には相談だけお願いして、法廷には私が行くのではだめでしょうか」と聞くと「そんなに甘くはない。それで勝てるなら弁護士はいらない」と言うので、生返事をして弁護士の元を辞する。なあに、まだ裁判になったわけではない。ゆっくり考えればよい。私は過去にドイツの合唱団のツアーの立替金を巡って招聘元のマネージメントと争ったり、解雇事件で大学と争ったりといくつかの裁判の経験がある。4勝1敗だがそのうち1件は弁護士を立てずに法廷に立って勝訴している。今回の件は根拠も示さないまま、まことに高圧的な請求で納得がいかないのに1円だって払うのは腹立たしい。仮に裁判になって負けてもはじめから請求があった金額を払わなくてはならないだけ。そのためにわざわざ弁護士を雇う必要はない。私は弁護士を頼まずに自ら書面を書き、法廷に立つ覚悟を決めた。

2002年6月29日に新国立劇場での日独楽友協会「ナクソス島のアリアドネ」公演は成功裏に終わる。若手の歌手たちの多くは初めて立った新国立劇場の舞台で精一杯歌い、おおむね700名、会場の8割ほどをうめた入場者からは終演後7分間にもわたる拍手が鳴り響いた。残念ながらやはり無名の小団体が行ったこの公演を取り上げたマスコミはなかった。
公演後日本ショット社に同じく「警告書」を送りつける。権利を証明する書類を示さずに高圧的な態度で金銭を要求するのは恐喝と同じだ。戦時加算について根拠があるなら示してほしい、という内容である。

2002年7月9日、私は例年通りドイツ・オーストリアでの講習会と、2000年から客演指揮者となっていたハンガリーでの演奏会のため日本を離れた。その後、7月22日に東京地方裁判所から日独楽友協会あてに訴状が送達される。

原告、日本ショット社の請求金額は88万615円であった。内訳は日本ショット社側が勝手に算出した入場料金の7%、35万1820円、パート譜使用料22万8795円、弁護士費用(我が国の民事裁判で裁判を起こしておいて相手側に弁護士費用を請求するのは稀であると思われる)30万円である。通常訴状を準備して提訴するのにはもう少し時間がかかるので、まあ訴状がきても帰国後に答弁書を書けばいいと思っていたが少々当てが外れた。しかし相手方の書証(裁判の書面に添付する証拠書類のこと)を見ると、私に送りつけてきたのと同じ程度のものしか付いていない。裁判所に提出するにはいかにもお粗末で、準備が整わないうちに拙速に訴状を用意したらしいことがわかる。

(続く)

2012年5月9日水曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(2)


さて、リヒャルト・シュトラウスはドイツの作曲家であり、1949年9月8日に死亡している。ドイツは連合国ではなく、シュトラウスは連合国民ではない。従って著作権について定めたベルヌ条約によって日本においてはその著作権は1999年末を持って終了しているはずである。それではなぜ、日本ショット社は2002年になってこのような請求をしてきたのであろうか。何か根拠があるなら是非説明してほしいと問い合わせると、以下のような回答が返ってきた。(傍点は筆者、前置きなど一部を省略)

日独楽友協会
杉山直樹様
「ナクソス島のアリアドネ」を含むリヒャルト・シュトラウスの多くの作品は、ドイツの出版社アドルフ・フェルストナーによって最初の出版がおこなわれております。しかし、フェルストナー社の所有者はユダヤ人であったため、ナチスの台頭によリ1938年に余儀なく英国に亡命・英国法人を設立して、ドイツ、イタリア・ポルトガル・ソ連、ダンチッヒ自由都市以外の地域を除く全世界に対する著作権を保有しました。プージー&ホークス社は1943年にフェルストナーの英国法人のすべてを買収しました。「ナクソス島のアリアドネ」をはじめとするフェルストナー作品の日本地域における著作権者が1938年に設立された英国法人であることから、「連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律」第2条第2項のにより、これらの作品等は、著作権の保護期間に対して戦時加算を受けています。
また、「ナクソス島のアリアドネ」の演奏用の楽譜は、日本国内において著作権が保護されている以上、その持ち込みは禁止されています.したがって、もし日本国内に、私どもがレンタル楽譜として管理している以外の楽譜が存在するとすれば、それは不法複製物であることは明白です。したがいまして、すでに連絡いたしました条件による事前の許諾なしに上演等を強行される場合には、法的な手段による公演の差し止め、違法複製物の没収といったことにならざるを得ないことをご承知ください。

上記につきましては、日本地域の著作権看であるプージー&ホークス社の確認・了承を得たものであり、さらにドイツのフェルストナー社は現在、当社の親会社であるショット社が所有していることを、申し添えます。

なお、貴協会のホームページによれば、20001224日かつしかシンフォニーホールでカール・オルフ作曲「カルミナ・プラーナ」を公演されたという記録が掲載されていますが、この演奏のための楽譜も不法複製物の疑いがあり、改めておうかがいするつもりです。
日本ショット株式会社
代表取締役 池藤ナナ子

こちらは著作権についての説明を求めただけなのに、「法的な手段による公演の差し止め、違法複製物の没収」などと、はじめから穏やかではない。しかも、過去の公演についてまで「この演奏のための楽譜も不法複製物の疑いがあり」などと難癖をつけてきた。カルミナ・ブラーナは演奏用のアレンジがドイツ・ショット社から複数出版されており、これを購入して演奏したのに失礼極まりない。それに著作権を主張する割には「フェルストナー」(実際はFürstner「フュルストナー」)などと誤記があってお粗末である。しかし相手はドイツを代表する大出版社の日本子会社であり、英国最大の音楽出版社であるブージー&ホークスの代理店である。

早速、高圧的な請求に対して抗議するとともに、契約書などの権利を証明する書類を公開するように要求した。同時に念のため、弁護士と、音楽出版に詳しい知人に相談する。すると二人とも口をそろえて「ああいう人たちはヤクザと同じですからね」といわれたのには驚いた。
1週間後、ショット社から届いたブージー&ホークスの「著作権を証明する書類」とは次のようなものであった。
・日本音楽著作権協会のホームページのコピー
・ブージー&ホークス社の出版カタログのコピー
・ブージー&ホークス本社の取締役が日本ショット社におくった「ナクソス島のアリアドネの著作権は間違いなく当社にある」と書かれた手紙のコピー
・1987年にリヒャルト・シュトラウス(作曲家の孫)と上記取締役の間に交わされた出版権の更新に合意する文書
いずれも、リヒャルト・シュトラウスの作品が戦時加算の対象となることを証明するようなものではなかった。そこで、引き続き証拠書類を請求しながら念のため楽譜については利用の申請をしておくこととなった。但し楽譜の状態がわからないので(書き込みがたくさんあったり、ぼろぼろで使いにくいものが時々あるので)事前の閲覧を求める。証拠もないままに高額なレンタル料を払ってしまっては、後で返してもらうのが大変である。ちなみにアメリカから購入したパート譜のセットは850ドルだったが、日本ショット社のレンタル譜は演奏一回につき22万8795円である。

公演1週間前になっても十分な証拠書類を示さないまま、日本ショット社は「楽譜は前払いで、事前の閲覧は認めない」と言ってきた。それでは予定通り、購入したパート譜で演奏するほかない。
ただでさえ忙しい、オペラの公演の直前、しかも初めての新国立劇場での上演、作品は難曲「ナクソス島のアリアドネ」である。その時期にこのようなよけいな問題が発生し、しかも代表であることから指揮者の私が対応しなくてはならない事態となったのは、大変なストレスである。再び公演準備に集中しようと取りかかったところ、公演前々日に「警告書」が郵送されてくる。これは日独楽友協会だけでなく、新国立劇場運営財団にも同じものが送付され「レンタル譜を使わず、上演許諾を受けなければ法的措置をとる」「会場を貸した新国立劇場も場合によっては責任を追及する」といった内容となっていた。最近はやりの架空請求書を送りつけてくる詐欺師とそっくりの文言である。新国立劇場には早速事態の経緯を説明する文書を提出して理解を求めると同時に、公演直前であるのに急遽弁護士と連絡を取り、練習の合間に相談を受ける。ストレスで卒倒しそうになる。

(続く)

京都市交響楽団(12)         被告の移送申立に対する意見書

本来、被告の移送申立書、答弁書を先に掲載するべきですが、現在スキャニングができませんので、そちらはでき次第アップすることにします(全文を写すのは非常に大変ですので)。

平成24年(ワ)第2981号
損害賠償請求事件
原告 杉山直樹
被告 京都市ほか6名

意見書

(2012)平成24年5月10日

東京地方裁判所民事第1部合2係 御中

原   告   杉 山 直 樹

標記事件について,被告の平成20年2月1日付移送申立に対する原告の意見は,以下のとおりです。

第1 趣旨
本件訴訟の京都地方裁判所への移送は認められない。
第2 理由
裁判の管轄について
(1)被告の主張
(ア)被告は本件不法行為が行われた場所が退職の強要その他退職の手続きに関する行為が行われた京都市内であり、その裁判管轄は京都地方裁判所であると 主張する。
(イ)また被告広上および被告荒井は被告京都市の人事に関する権限を何ら有しないことから、本件不法行為は専ら被告平竹および被告並川によって行われた と述べている。
(ウ)さらに国家賠償法第1条において「公権力の行使に当たる公務員の職務行為に基づく損害については、国又は公共団体が賠償の責に任じ、職務の執行に 当たった公務員は、行政機関としての地位においても、個人としても、被害者に対しその責任を負担するものではない」とされていることから原告の請 求は被告京都市に対して成されるべきであるとしている。
(2)原告の主張
しかしながら、上述の3点こそがまさに本件裁判の争点であり、被告の主張はそもそも自らの主張がすべて正当であるという尊大な錯誤に基づいた物で ある。
(ア)原告の立場は「そもそも京都市の人事に関する権限を何ら有しないはずの被告広上、被告荒井が被告平竹及び被告並川に対して執拗な干渉を行って原告 を解雇させた」行為こそが本件不法行為の第一原因である、とするものである。従って本件不法行為は退職の強要その他退職の手続きに関する行為のみではなく、その行為が行われたのが主に京都市内であったのか、原告が聞き及んでいる金沢市内での会見が被告平竹および被告並川に最終的な決断をさせたのか、あるいは電話や電子メールによって行われたのかは現時点では決定づけられない。従って不法行為が行われたのが京都市内であるという断定は被告の強弁である。
(イ)上記2―(ア)の通り原告は被告広上及び被告荒井は民法第719条第1項 における共同不法行為者であると同時に第2項の不法行為を教唆した者にあ たると考える。従って被告広上及び被告荒井の住所地である東京地方裁判所がその管轄にあたると考えられる。
(ウ)さらに被告平竹および被告並川の行為がすべて「公権力の行使に当たる公務 員の職務行為」にあたるかどうかは甚だ疑問である。なるほど退職の強要その他退職の手続きに関わる部分は職務中の行為であった様に解釈することもできる。しかし、業務に必要なファイルをデスクから持ち去ったり、さまざまなパワーハラスメント行為は「職務行為」とは言い難く、執拗な退職勧奨と対を成して被告らの業務外の恣意的行為であったと考えられる。従って国 家賠償法第1条の適用を受けるとは思われず民法第709条の不法行為にあ たると考えられる。京都市においては刑事罰の対象となる様な犯罪さえ軽微 な懲戒の対象としかならないことが常態化し、被告の京都市長、門川大作が最高裁判所で敗訴して支払い命令を受けた損害賠償金を支払わないなど、国家賠償法第1条を逆手に取った公務員の違法行為、不法行為が野放しにされているのである。従って本件不法行為の責任は被告平竹および被告並川個人 にあるのであって原告の請求は被告京都市にのみ為されるべきであるから、その管轄は京都地方裁判所であるとの主張は失当である。
(エ)上記により、本件裁判は民事訴訟法第16条による移送の適用を受けない。
裁判の衡平について
(1)被告の主張
(ア)前述の通り被告は被告広上および被告荒井は被告京都市の人事に関する権限 を何ら有しないことから、本件不法行為は専ら被告平竹及び被告並川によって行われ、当該行為が存在したとしてこれが不法行為に該当するか否かが直 接的な争点とされるべきであると述べている。
(イ)従って被告広上及び被告荒井の証人尋問をする必要は認められず、尋問の可能性のある被告平竹および被告並川の住所地は京都市内にあることからその出頭の難易等からすれば京都地方裁判所をその管轄とするのが衡平であると主張する。
(ウ)また原告本人を尋問することも考えられるが、尋問する者の数、普通裁判籍が被告の住所地とすること等を考慮すると、京都地方裁判所をその裁判管轄とするのが当事者間の衡平にかなうものと解される、としている。
(2)原告の主張
(ア)本件不法行為が専ら被告平竹及び被告並川によって行われたという主張については争う。従ってこの点が本件移送の理由となるとは考えられない。
(イ)原告は被告広上および被告荒井に対する証人尋問は、本件不法行為が主に誰によって行われたかという事実が裁判の経過と共にいかなる判定をされようとも必要であると考える。また被告側は被告平竹および被告並川については尋問の可能性があるとしているが、これは必ずしも本人が出廷する蓋然性が 高いことを示していない。
(ウ)民事訴訟法第5条の特別裁判籍によれば本件裁判は東京地方裁判所、京都地方裁判所の他、さいたま地方裁判所で行うこともできたのであるが、原告は様々な証人の出廷の可能性などを考え、敢えて東京地方裁判所に提訴したのである。
被告は「原告本人を尋問することも考えられるが」と述べているが、原告は本人訴訟を行っているので口頭弁論や弁論準備、その他和解手続きなどがあればその都度京都市まで出向かなくなることは明らかである。これに対して被告らは代理人弁護士を依頼しており、また被告ら全員がすべての口頭弁論に出廷することは考えられないから、ただでさえ不当に退職を強要され、充分な資力を持たない原告と、極めて恵まれた定収があり、さらには「みやこ互助会」なる組織から裁判費用の補助を受けることまでできる被告の状況を 比べた場合、原告が極めて不利な立場に立たされるのは明らかである。よって、どちらの裁判所が管轄となるのが衡平であるかは自明である。
(エ)被告は答弁書の10頁で、原告が指揮者である訴外下野氏、同湯浅氏、同現田氏に「失礼な態度を取った」り「批判した」ため各氏が「憤慨した」と、虚偽の事実を述べている他、原告の「非行」を捏造している。その為原告は事実を証明するため多数の関係者の陳述を必要とすることになる事が考えられるが、関係者の多くは東京、若しくは東京近郊に住所地があるため、京都地方裁判所の管轄となれば原告が負担しなくてはならない交通費などは膨大な物となると考えられる。また、関係者の日程を調整するのはほぼ不可能に近い物と考えられる。
(オ)原告は平成24年1月5日に被告門川並びに被告平竹に書状を送り(甲5号証)、原告を解嘱したのは被告広上および被告荒井の執拗な要求による物であったことを認め、原告に対するパワーハラスメント行為や失礼な態度に対して謝罪するのであれば京都市、及び京都市交響楽団関係者に対しては責任を問わず、提訴もしないことを申し出たが、両名は何の回答もしなかったので原告は京都 市交響楽団関係者も被告に加えざるを得なかった。反して言えば、もし被告 京都市との間に何らかの合意が成立すれば、本件裁判は被告広上および被告 荒井とだけ争われることになる可能性も残されている。そうなった場合本件 裁判が京都地方裁判所で行われることには何の合理性もない。
(カ)上記の理由から本件裁判を京都地方裁判所に移送するという被告の申立は、 民事訴訟法第17条の「訴訟の著しい遅滞を避け、又は当事者間の衡平を図る」という目的と悉く対立し、憲法第32条によって認められた原告の裁判 を受ける権利を侵害し、原告に膨大な出費を強いて裁判の維持を困難にし、 裁判を故意に長引かせるための手段であると判断できる。

京都市交響楽団(11)         被告の答弁書と移送申立について

最初に、多くの方から励ましのメールを頂いておりますことに厚く御礼申し上げます。
今後、長く厳しい戦いになる事と思いますがご支援を頂ければと思います。

また、反対意見の方も匿名でも結構ですから是非ブログに書き込み頂ければと思います。
但し極端に品のない発言や、根拠なく個人を中傷する様な書き込みは消去します。
私に対する批判があれば、可能な限り直接お答えしたいと思います。
お返事が遅くなることがあるのはお許し下さい。

今年(2012、平成24年)4月下旬に被告から東京地方裁判所に対し、裁判を京都地方裁判所に移送するようにとの申立書が出ました。申立書の全文はJPEGないしPDFをブログに添付する方法がわかったら追って添付しますが(自宅にスキャナがないので,しばらくお待ち下さい)被告らの申立は明らかに本人訴訟で行っている原告に多くの負担をかけ、裁判を妨害しようとする物です。

これまで私は、起こったことをなるべく時系列に記載し、多くの方に知って頂きたいと考えていましたがその中で、一部控えてきたことがあります。京都市交響楽団で起こってきた様々な犯罪や違法行為、その関係者について記述することです。これは今回の裁判と直接関係ないこと、すでにほとぼりの冷めた事件について記述することは何の意味もなく、京都市交響楽団関係者や音楽ファンの皆さんにも不快な思いをさせる事になると考えたからです。

しかし被告答弁書の内容があまりに事実とかけ離れた悪意ある捏造に満ちていること、また報道機関が今回の裁判についてほとんど取り上げない中、このブログだけが世間に事実を知って頂く唯一の発言場所である以上、今まで京都市交響楽団関係者に実際どのような非行が
あり、それらの人がどういう処分を受けているか、私の場合はどうであるかを広く知って頂く必要があると考えます。

また、これらの事実を発表しておく方が私の身の安全にもつながると思います。よって、ご不快な感情を持たれる方がいるとしても、今後は徐々にこれらのことについてここに書く足していこうと思います。


京都市交響楽団(10)         広上淳一、京都市らに対する裁判の訴状全文

以下、訴状の全文(原文ママ)です。




訴   状

平成24年2月2日



東京地方裁判所 御中

〒330-○○○○ 埼玉県さいたま市○○○○○○○○○○○
原     告   杉 山 直 樹
電 話 ○○○ー○○○○○○○○○○○
〒○○○-○○○○ 東京都○○○○○○○○○○○
            被    告 広 上 淳 一
            〒○○○-○○○○ 東京都○○○○○○○○○○○
株式会社AMATI
            被    告  荒 井 雄 司
〒○○○-○○○○ 京都市○○○○○○○○○○○
            被    告    京 都 市      
            〒○○○-○○○○  京都市○○○○○○○○○○○
            電 話 075-○○○-○○○○ ファックス 075-○○○-         ○○○○
            被    告 門 川 大 作
            被    告 平 竹 耕 三
            被    告 並 川 哲 男
被    告 新 井   浄
損害賠償請求事件
訴訟物の価額  金2000万円
貼用印紙額   金8万円

第1 請求の趣旨
1 被告は,原告に対し,金2000万円及びこれに対する平成21年6月30日 から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
を求める。
第2 請求の原因
1 当事者
(1)原告は,平成21年4月1日京都市に採用され,京都市音楽芸術文化振興財        団に所属して,同財団が運営する京都市交響楽団にサブマネージャーとして平 成21年6月30日まで勤務した。職務内容は,京都市交響楽団の公演企画運 営,営業統括,音楽スタッフ業務統括指揮監督などである。
(2)被告広上はフリーの指揮者であり,京都市交響楽団を運営する音楽芸術文化 振興 財団とは所属するマネージメントを通して,年に数回主要な公演を指揮す る常任指揮者としての契約を結んでいる。
(3)被告荒井は被告広上のマネージャーであり,事件当時は訴外梶本音楽事務所 に所属して被告広上ほか,クラシック音楽の指揮者,演奏家のマネージメント 業務を行っていた。
(4)被告京都市は市民文化の形成,青少年の情操を高めるために,昭和31年4 月京都市交響楽団を設立したが,平成21年4月にその運営を京都コンサー トホール内にある京都市音楽芸術文化振興財団に移管した。
被告門川は京都市長であり、京都市交響楽団楽団長である。

(5)被告平竹,並川の両名は京都市職員であり京都市交響楽団を運営する京都市 音楽芸術文化振興財団に出向して各々副楽団長,シニアマネージャーを務めて いる。
2 原告の京都市交響楽団への採用
(1)原告は,フリーの指揮者,指揮教育者として活動していたが,平成21年1 月下旬に京都市交響楽団の被告,新井浄音楽主幹から京都市交響楽団でマネー ジャーとして働く意志はないかと打診を受け,同年2月に京都市を訪れて被告 平竹,当時の事務局長,係長の面接を受け,2月末日に採用内定通知を受け た。 そこで原告は当初予定していた数年間にわたる当面の指揮活動,指揮教育  活動を相当の違約金を支払ってキャンセルし,京都市内に住居を手配して原告 本来の居住地であるさいたま市のほか活動の拠点となっていたオーストリア ウィーンからも荷物を運び,3月下旬京都市内にマンションを借りて、4月1 日に京都市に非常勤嘱託職員として採用され,即座に京都市音楽文化振興財団 に出向を 命じられて,京都市交響楽団サブマネージャーに任ぜられた。
しかし,原告が着任してみると職場内に原告の着任以前からのさまざまな人 間関係のこじれがあり,特に被告新井と折り合いの悪い音楽スタッフが職務上 必要な連絡を新井の紹介で着任した原告に行わなかったり,上司に無断で外部 の指揮者に出演日程の交渉を行うなど,組織が機能しておらず,予算の作成や 財務,出納の状況が非常に不明瞭で,過去の経営に関するバランスシートなど の資料が整備されていないことなどがわかった。
(2)被告広上は,本来京都市音楽芸術文化振興財団と常任指揮者契約を結んで出 演しているに過ぎず,京都市音楽芸術文化振興財団および京都市交響楽団の人 事や運営など,音楽面にかかわらない問題については一切の発言権を持たない が,京都市交響楽団が平成21年度から財団に移管される事,同じフリーの指 揮者であった原告が,マネージャーとして新たに採用される事など,いくつか の点において京都市,または財団から事前に説明を受けていなかった事に不満
を持ち「杉山をやめさせないなら常任指揮者を降りる」などと京都市および京 都市音楽芸術文化振興財団の幹部に対して執拗に働きかけ,平成21年5月末 に京都市は原告に対して解雇辞令をもって辞職を迫るに至った。
(3)被告荒井は,京都市交響楽団の指揮者やソリストをほぼ独占的に供給してき た経緯から,音楽に専門的知識や幅広いコネクションを持つ原告が京都市交響 楽団に赴任することによって,自らの独占的な立場が脅かされることを恐れて 被告広上と共謀し,京都市幹部を旅行先の金沢に呼び出すなどして原告を解雇 するよう迫った。
3 京都市による解雇辞令の交付と,原告の辞職
被告広上,及び荒井の要求により,平成21年5月下旬ごろ被告平竹、並川の 両名は原告を京都市交響楽団練習場会議室に呼び出し、突然「杉山さんはス タッフをまとめられていない,指揮者とコミュニケーションができないので雇 用関係を解消したい」などと告げた,特に被告並川からは「これは京都市の決 定なのでもう変わらない」「早く辞表を書いてほしい,京都市は何の補償もす るつもりはない」「おとなしくやめた方が杉山さんの経歴にも傷がつかない」 などと,脅迫的な言葉で執拗に辞表を出すことを迫り,原告は大きな精神的 苦痛を受けて,ひどい頭痛,肩こり,不眠などの心因性の障害を起こすように なった。
京都市は平成21年5月末に原告に対して6月15日の日付けの記された解雇辞令 を交付した。原告は「解雇は不当であり,裁判を持って争う」と主張したが, 被告新井らが「解雇されれば人生の汚点となり,音楽業界で仕事をすることは できなくなる」「おとなしく辞表を書けば責任を持って次の仕事を世話する」 などと1ヶ月近くにわたって執拗に退職勧奨したこと,業務中スタッフに楽器 をぶつけられる,業務遂行に必要なファイルをデスクから持ち去られる,重要 な来客や会議があるのに知らされないなど様々なパワーハラスメントが続け, 平成21年6月15日には辞表を書かざるを得なくなった。

4 損 害
原告は京都市交響楽団に採用されるにあたり,基本年俸約700万円,当時48歳だった原告は定年まで12年間勤務できると説明を受けていた。ところが 実際には3ヶ月足らずのうちに退職を余儀なくされ,金銭的に大きな損害を 被っただけでなく,精神的にも耐え難い苦痛を受けざるを得なかった。12年 間に支払われるべき給与の合計は,昇給等がなかったとしても8400万円で ある。しかし現実には住居費その他様々な経費がかかるので,実際の遺失利益 は本来概ね4000万円であったと考えられる。しかし、原告は実際には平成 21年5月31日までの2ヶ月間しか勤務しておらず、上記のうち被告のみの責任 に帰すべき金額は判定しがたい。
被告広上らは京都市に対して原告を解雇するよう働きかけ,そのことが唯一の 原因となって原告は辞職を強要された。この件に関しては被告京都市、被告門 川,平竹、並川、新井の側にも,相当の責任がある。原告は被告新井の申し出 により,京都市交響楽団に赴任することになったが決定まで僅か2ヶ月あまり であったことから赴任に当たってその後数年間に予定されていた仕事を断って いる。また京都市交響楽団在任中に原告が自らを名乗って出演を依頼したり、 交渉をした音楽家多数に対し、原告が解雇された後被告らは出演を拒否するな ど不利益な扱いをし,この事が原告のその後の業務に大きな悪影響を及ぼして いる。
以上により被告らによって原告の被った損害は金2000万円を下回ることはない。

5 結 語
よって原告は被告らに対して損害賠償金として金2000万円と,原告が退職を余儀なくされた平成21年6月30日から支払い済みまでの民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

以 上

証 拠 方 法
追って立証する。 

添 付 書 類
1 訴状副本           7通
2 甲1号証 人事異動通知書 1から5
3 甲2号証 自宅待機命令
4 甲3号証 被告京都市が原告に要求した退職願のひな形
5 甲4号証 平成21年6月15日付けの解雇予告手当の計算書


以下は訴状の訂正申立書です。

平成24年(ワ)第2981号
損害賠償請求事件
原告 杉山直樹
被告 京都市ほか6名

訴状訂正申立書

(2012)平成24年5月10日

東京地方裁判所民事第1部合2係 御中

原   告   杉 山 直 樹

頭書の事件につき、原告は次のとおり訴状を訂正いたします。

第1 被告の表示の訂正

訴状1頁には〒○○○-○○○○  京都市○○○○○○○○○○○ 被 告京都市とあるが〒○○○-○○○○  京都市○○○○○○○○○○○ 被告京都市、代表 京都市長門川大作と訂正する。


第2 請求の趣旨の訂正

訴状2頁には
1  被告は,原告に対し,金2000万円及びこれに対する平成21年6月30 日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

とあるが、下記の通り訂正する。
被告らは,原告に対し連帯して金2000万円及びこれに対する平成21年 6月30日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
添 付 書 類
1 訴状訂正申立書副本 7通

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(1)

今年で10年になる事からオペラ「ナクソス島のアリアドネ」上演とその後の裁判の顛末についてブログに発表しようと思う。文章は2005年にR.シュトラウス協会年誌に掲載された物と同じ。

日独楽友協会が新国立劇場中劇場での「ナクソス島のアリアドネ」上演を正式に決定したのは2001年の秋のことである。この作品を上演するのなら会場は是非新国立劇場中劇場でと考えていたのだが、会場との日程調整に手間どってしまい、日程が確定したのは公演のわずか8ヶ月ほど前のことであった。

日独楽友協会1990年から91年にかけて私が中心となり、恩師のクルト・レーデルを音楽監督に迎えて設立した団体である。当初アマチュア会員がほとんどで、日独合同演奏など国際親善的な活動を行っていたが、その後若手のフリー演奏家が次々と入会して主要メンバーとなり、1996年からプロフェッショナルなメンバーだけの演奏を行うようになる。法人化していない小さな団体であるが、ドイツやオーストリアで学んだ音楽家が多いので演奏にはこだわりがある。家元制度的で派閥や上下関係が厳しい日本の音楽界では、留学中に少々不義理をすると人間関係が途絶えてしまい、演奏に磨きをかけて帰国しても、演奏の機会のない音楽家が沢山いる。そうした若い音楽家による「シンフォニッシェ・アカデミー」が、次第に合唱との共演、オペラ、オペレッタ、バレエなどの公演を行うことになり、東京以外での演奏の機会も増えてきた。同じような境遇の、才能があっても演奏の機会に恵まれない歌手たちに、派閥や上下関係にとらわれずに舞台に立つ機会を持ってもらおうと、行うこととなったオペラの自主公演第1段が新国立劇場中劇場でのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」である。

日独楽友協会が初めてのオペラ公演の演目に「ナクソス島のアリアドネ」を選んだのには訳がある。序幕に描かれた音楽の現場での崇高な理想と、残酷な現実の相克は、程度の差こそあれ、時代を超えてあらゆる芸術の現場で繰り返されてきた悲喜劇である。「メセナ」を自認する成金の侯爵は、最後まで舞台に姿を現す事はないが、彼の芸術への無知と無理解は、権威主義の権化である侍従長によって舞台上の出演者達に伝えられる。バブル華やかなりし頃人口に膾炙したこの「メセナ」という言葉は、本来損得に関係なく才能ある芸術家を育成しようとする篤志家を指す言葉であるが、日本における「メセナ」はまさに芸術に対する無知と無理解のオンパレードであった。バブル華やかなりし頃、企業も行政も後の批判を恐れて、自らの目や耳で芸術を評価しようとせず、コンクールでの上位入賞者や有名な評論家の推薦がある特定のアーチストだけが支援の対象となり、出演依頼が集中し、広告代理店も加わって多額のスポンサー料が支払われた。特に海外の有名アーチストが目白押しで来日した事は、地道な活動を続けていこうとしていた若手演奏家とって致命的であった。かくして、「バブル」と「メセナ」はかつて中国で吹き荒れた文化大革命の嵐のように一つのジェネレーションをこの国の歴史から抹殺しようとしている。何と、この作品の影の主人公であるこの「町人貴族」の侯爵と二重写しになる事だろうか。

私は1987年に帰国した後5年間、バブル最盛期の日本で、本来学んだ演奏の仕事に就くことができず、マネージャーとして音楽の現場を舞台裏から見てきた。8ヶ月あまりではあるが企業メセナ協議会の事務局にも在籍した私は、日本における芸術の閉塞状況を作り出している芸術への無知と無理解に何とか一石を投じたかったのである。

さて、前置きが長くなったが、2002年に入ってキャストも決まり、音楽稽古が順調に進み始めた。オーケストラのパート譜はアメリカからリプリント版を取り寄せることとし、ピアノボーカルはドイツから20冊を取り寄せた。ドイツ在住のキャストも帰国し、いよいよ立ち稽古が始まった5月はじめごろ、ドイツの出版社ショット社の日本子会社である日本ショット社から突然電話がかかってきた。(ドイツ・ショット社の日本子会社が日本ショット社でありその日本ショット社が英国のブージー&ホークスの代理店として裁判の原告となっているので話がややこしいが)曰く、「著作権の許諾申請がなされていない、レンタル譜の利用申請も受けていない。この作品の著作権は当社が管理しているので至急著作権使用の許諾申請とレンタル譜の利用申し込みをしてほしい」。寝耳に水の請求である。私は著作権の専門家ではないが、少なくともマネージャーとしてクラシックの音楽現場で5年以上の経験があり、音楽作品の著作権が一部の例外を除いて作曲家の死後50年で消滅することは知っている。一部の例外とは所謂「戦時加算」というもので、第2次世界大戦の終了後、サンフランシスコ平和条約によって敗戦国である日本に押しつけられた不平等条約である「連合国および連合国民の著作権の特例に関する法律」(1952年8月制定)が有効となる作曲家の作品である。この法律の根拠は、太平洋戦争の勃発した1941年12月7日(日本時間では12月8日となるがハワイ時間では12月7日であった)からサンフランシスコ平和条約の発効する1952年4月28日までの間日本において連合国の著作権が保護されていなかった(?)ことから、本来消滅するはずであった著作権の保護期間をこの約10年半の分延長するというものである。

第1次世界大戦の当時、回転するプロペラの間から機関銃の弾を打ち出す機構を考案したのはフランスであるが、まもなくこの機構を搭載した飛行機がドイツの手に落ち、ドイツ側はすぐさまこの機構を改良して戦闘機を戦場に送り出す。もちろん、フランス側に特許の申請をするわけも特許料を支払うわけもない。特許権については誰が発明しようが利用できるものは敵の技術でも利用しただろうし、敵の発明にわざわざ利用許諾を申請したり特許料を支払う者はいない。しかし、芸術となると訳が違う。太平洋戦争中日本では、英語を「敵性語」米英仏の作品の上演を「敵性音楽」として禁止していたのであって、「交戦国の作品だから今なら著作権料を踏み倒して演奏し放題」などと考える輩がいたら、たちまち特高か憲兵隊が乗り込んできたことだろう。だいいち、太平洋戦争中の日本はクラシックのみならず音楽などを大手を振って演奏できた時代ではなかったはずである。演奏できたのは戦争を鼓舞する勇ましい軍歌だけであったろう。戦後の混乱期、占領下でも連合国の作曲家の作品がそれほど多く演奏されたとは思えない。著作権に関して連合国が利益を遺失した事実はほとんどなかったはずである。逆にこの「連合国および連合国民の著作権の特例に関する法律」によってドビュッシー、ラヴェル、ガーシュインなどの著作権が10年以上にわたって引き延ばされ、日本が豊かになってクラシックをはじめとして短期間に沢山の音楽が演奏されるようになった時代にこうした作曲家の著作権が有効だったことによって、旧連合国の関係者は莫大な著作権料を徴収し続けたのである。

(続く)

2012年4月26日木曜日

京都市交響楽団(9)         第一回口頭弁論期日が取り消しになりました。

4月27日に予定されていた第一回口頭弁論は、被告からの京都地方裁判所への移送の申し立てにより取り消しになりました。5月11日までに移送に関する意見を述べて、新たな日程が東京、または京都の地方裁判所から通知されることになると思います。

私としては東京地方裁判所で公判が行われることを望んでおり、その旨の意見を述べようと考えております。

2012年4月14日土曜日

京都市交響楽団(8)

新井音楽主幹は広上淳一の言い分にかなり不満があったのに一言も言い返さなかったふうであった。京都の居酒屋に入るなりそれを私に向かって吐き出し始めた。曰く「杉山を採用したのは事務局に音楽の専門家、著作権や法律に関する知識のある人間がいないことから、長期間京都市の幹部と話し合って決めたことだ、人事権のない常任指揮者である広上にそれに口を出す筋合いはない」。恐らくそういう事なのだろう。しかし、日本社会に当たり前に存在する根回しを、しかも非常に保守的な風土である京都で、この人はまったく行わなかったのであろうか?しかも、常任指揮者である広上淳一に事前の紹介もなく事務局に赴任することには私にも大きな不安があった。2月28日、東京公演の直前に内定の通知があったと言うことは、私としては当然東京公演の際に紹介を受ける物と思っていたのである。今までどの職場でも、業務の始まる数日から数週間前に同僚や上司を紹介され、業務の概要について説明を受けたり、場合によっては赴任までの間に読んでくる書類や資料、楽譜などを渡されたりした。それが、京都市交響楽団の場合は赴任前日に行われた尾高忠明指揮の定期演奏会の練習にすら(すでに京都で待機しているのに)「まだ業務が始まらないので来ないで欲しい」と言われて出席させてもらえなかった。新井氏のやり方は私にはまったく理解できなかった。

2012年4月9日月曜日

京都市交響楽団(7)         大阪での演奏会後

演奏が終了すると、予て並川事務長から一方的に発表があったとおりホール玄関での「お見送り」が行われ、その為汗だくになった楽団員達が楽屋から狭い通路をホール玄関に走った。「お見送り」については事務局内部だけではなく、ユニオンからも一切反対意見が聞かれなかったことが不思議だった。京都市交響楽団が財団に移管され、楽団員の身分も財団に出向となったことから何かに意見を言ったりすることが不利益な扱いにつながるのではないかという不安感が楽団全体に満ちている中、楽団員全体に対して相談のないまま決まっていくことが多いように感じた。思えば「楽団員総会」の様なものが行われないのも不思議だった。

私は「お見送り」には反対だったが自分の意見がどうであれ、組織として一旦決まった事は守らなくてはならない。0円のスマイルを湛えて、私は楽団員有志と共にシンフォニーホールの玄関に並んだ。

聴衆の退館が終わって、事務局員や副市長をはじめとする京都市の幹部が指揮者の楽屋を訪ねた。広上淳一はおどけて見せているのか、わざとヒステリックな笑い声を出して一同を迎えたが、私には良く意味がわからなかった。訪問は長くはかからず、ようやく広上淳一と新井音楽主幹、それに私の三人だけでホールを出て福島駅近くの居酒屋に入った。

私は対面に、新井音楽主幹は広上淳一の左側に座った。私は先ずは丁重に挨拶をし、当日のコンサートお疲れ様でしたと述べた。しかし広上はまず新井音楽主幹の当日の「失態」を執拗に責め立てた。楽団員に範を垂れなくてはならない音楽主幹が、演奏会当日楽屋口に座り込んで喫煙しているとは何事か、みっともない、その連続であった。確かにあまり褒められたことではないが、その叱責があまりに執拗なので私は少々不快に感じた。新井氏は私よりも6、7歳広上から見ても5歳ほど年長である。なのに広上はまったく対等に話している。しかも新井氏の肩を何度も叩いていた(もちろん、痛いほどの叩き方ではないがよほど親密な関係でなければ非礼であろうと思えた)。

一頻り叱責が終わると広上は私に「今度はお前の話を聞こう」と言った。私なら年が20歳離れていても(あるいは相手が子供でも)数回会っただけの人間に「お前」とは言わないが、まあそういう人なのだから仕方ない、と思い私は自分の生い立ちなどを語った。広上はしばらく黙って聞いていたが、武蔵野音大でのキンカンの話などになると「俺も東京音大では小便をかけられた」などと自分の苦労話も挟みながら私の話をよく聞いてくれた。しかし、ウィーンで世話になった湯浅勇二氏の話になると、いろいろ湯浅氏をくさすような話を突っ込んできた。
私は湯浅氏とは25年来の知り合いだし、いろいろ世話になったこともある。しかし、湯浅氏に指揮を習ったことはないし(テクニック的な質問をしたり、レッスンを聴講したことはあるが)指揮者としての湯浅氏やその人格をいろいろと批判されても返す言葉もなかった。何故、広上が湯浅氏にそう拘泥するのかはよくわからなかったが、東京音大で指揮を教えていることと何か関係があるのか、湯浅氏の門下からコンクール優勝者が数多く出ていることにコンプレックスでもあるのか、などと考えてみたくもなった。

私の話が終わると広上は「お前も音楽家崩れでいろいろ苦労していることはわかった。しかし新井主幹の方から俺の方にきちんと話がなかった」と一方的に新井氏を非難するような口調になった。私には私を採用するに当たって京都市の内部で、あるいは京都市と広上の間でどのような事前の根回しが行われているのか、あるいは行われていないのかなど知る由もないし(たとえあったとしても新井氏はそういう事を一々事前に教えてくれるような人ではない)そんな事を私を前にして言われても何も言いようがなかった。

広上はその日のうちに東京に戻らなければならないそうで、あまり遅くならないうちに梅田まで広上を送って私と新井氏は京都に戻った。帰りの電車の中で新井氏はいたく不満な様子であった。京都に着くと新井主幹は飲み直そうと私を誘った。

(続く)

2012年4月4日水曜日

京都市交響楽団(6)         大阪での演奏会

京都コンサートホールでのスプリングコンサートの翌日、午後から4月11日は大阪公演のための練習が行われた。「カルメン」第一組曲と「ラプソディ・イン・ブルー」は共通のプログラムだったが、ソリストが京都では小曽根真氏、大阪では山下洋輔氏だったのでもう一度合わせが必要だった。そのため、休憩後のメインのプログラム、チャイコフスキーの「悲愴」にかけられる練習時間は限られていた。チャイコフスキーの「悲愴」は名曲だが、難曲でもある。チャイコフスキーの交響曲の中では「マンフレッド」と並んで演奏は最も難しい曲の一つだと言うことに異論はあるまい。しかし、誰もがよく知っている名曲には油断も生じる。

大阪公演のメインプログラム「悲愴」にかけられる練習時間が2時間半ほどしかないと聞いた時、私はてっきり「比較的最近広上淳一の指揮で演奏されているために、練習は思い出し稽古程度しか必要ないのだろう」と思った。展開部のすぐ前で習慣的に使われるバスクラが、何の打ち合わせもないのに舞台に用意されていたのも指揮者からリトゥシェの指示があったからだと思った(後で聞いたら別に指示はなくて「悲愴」の時は必ずバスクラを出していたらしい)。しかし、メンバーに聞いてみるとそうではないらしいことがわかった。少し危険なのではないか、そして何より練習1回、GPで本番というのはうるさがたの多い大阪での本番に向けたリハーサルとしてはどんなもんなんだろうと思った。そこで練習開始前に控え室を訪ね「スコアを見ながら練習を聞かせていただいて良いですか?」と広上に尋ねた。広上はその日は機嫌がよいようで「いいよ」とのことだった。そうこうするうちにリハーサルが始まった。

私は広上淳一の音楽そのものについては否定も肯定もしないが、全体に非常に大袈裟で、知的と言うよりは感情的な音楽の作りであるように感じた。オーケストラの音色や、音楽の質感にこだわると言うよりは、音楽の全体像を鷲掴みにするようなとらえ方で、ある意味ダイナミックとも言えよう。また、ボリュームの上がるところで常にテンポも同時に速くなる傾向もあるように感じた。こういう音楽に乗っていくのはオーケストラにとっては気分の良いもので、少し粗い部分があったものの、練習は順調に終わった。但し、あくまで「1日目の練習」と言う出来だった。第1楽章はまだ「譜読み」の出来てない場所が残っており、16分音符がトレモロになってしまっているところも多かった。第3楽章はどうしてもリズムの噛み合わないところがあったが、細かい練習をしている時間はどう考えてもなかった。練習後少しだけ、広上と話す時間があった。使っているスコアの話などほんの少しだったが、翌日の演奏会後にわざわざ私と飲みに行くために時間を取ってくれると言うことだったので丁重に礼を述べた。

翌4月12日の朝早く、私は京都を出て大阪に向かった。大阪はしばらくぶりで梅田の駅前はすっかり様子が変わってしまっていたので、工事中の場所を避けてシンフォニーホールにたどり着くのが少し大変だった。練習開始の小一時間前にホールに入った私は舞台裏と客席を行ったり来たりして練習の始まるのを待っていたが、その間に楽屋口で一悶着起きていた。指揮者の広上が楽屋入り口に着くと、音楽主幹の新井氏が楽屋口に「ウンコ座りしてタバコを吸っていた、みっともない!」と言って広上が激怒したというのだ。私は現場に居合わせなかったが、その後ホールに入った広上は舞台上でその時の状況を再現しながら大勢の関係者に新井氏を非難していた。そして、リハーサル(GP)が始まった。

GPの出来は大変素晴らしかった。ホールでのリハーサルとは大きな違いでオーケストラも良くなっており、細かい点にこだわらないスケールの大きい音楽だった。予定時間通りにリハーサルを終え、昼食は初めて楽員達数名とともに外で摂ることが出来た。音楽について会話も盛り上がって、早めにホールに戻りいよいよ大阪公演を迎えることとなった。

演奏会が始まって、前半はそのまま無事に終了した。事故が起こり始めたのは「悲愴」の第1楽章である。18小節目のフェルマータの後、GPまでは比較的冷静に指揮をしていた場所で、広上は急にヴィオラの方を向いて、ものすごく引っ張っていこうとするようなジェスチャーをした。ヴィオラが重く感じたのだろうか?しかしその後、広上はGPまでずっと出していた23小節目のフルートへのアインザッツを本番の時だけ出さずに、木管楽器の方を向き直ったのが都合1拍分いつもより遅かった。いつも出されていたアインザッツが突然無くなった1番フルートの最初の音が転ぶ。これをきっかけに「悲愴」に仕組まれた複雑なリズムのからくりがほんのちょっとだけずれ始める。GPでは揃っていた16分音符が僅かなきしみを伴ってずれていった。第2主題で持ち直したものの、GPの時の緊張感は完全に失われていた。そしてクライマックス、練習記号Qのところで再び事故が起きた。広上はGPまでQまでを4つで、Qから2つで振っていたのだけど、本番ではテンポは落ちたものの、Qから後も4つのまま振り続けたのだ。すぐに気がついていつも通りの振りに戻したものの、Qの後管楽器がカウントできなくなってオーケストラが崩壊し始めた。Qの9小節目のアウフタクト(弦楽器と高音木管)と、10小節目のアウフタクトが1小節ではなくて半小節ずれて(トロンボーンとチューバが2拍早く)始まる。弦楽器も崩壊しそうになるがコンサートマスターの泉原氏が必死に抑える。数小節そのまま進んだ後何とか混乱を収拾してオーケストラは立ち直った。時間にして数秒ほどのことだが、異常に長く感じたのは客席にいた私だけではあるまい(4月6日、一部記憶違いがあったので訂正しました。)。

「悲愴」はプロフェッショナルなオーケストラのレパートリーとしてはスタンダードな名曲である。しかし、過去に同じ指揮者とやったことがなかったり、数年間があいた場合はやはり入念な稽古が必要だと思う。定期演奏会の練習ほどでなくても、せめて京都での演奏会のリハーサルの際にもう一コマ練習を取っておけなかったのか、そもそもそうしたことにも助言を求めるためにわざわざ音楽家である私を「副音楽主幹」という職に招いたのではなかったのだろうか?しかし、事前にそのような発言が許されるような雰囲気はまったくなかったことは、この後の展開を読んで頂ければ納得して頂けることと思う。

(続く)

2012年3月25日日曜日

第一回口頭弁論期日が決まりました。


事件の経緯に関する報告が遅れていますが、京都市、門川市長、広上淳一らに対する損害賠償請求事件の第一回口頭弁論期日は、2012年4月27日(金)10:30から、法廷は東京地方裁判所415号法廷に決まりました。事件番号は「平成24年(ワ)2981号」です。
京都市、広上淳一らからの答弁書が用意されることと思います。必要があれば記者会見などを行います。

2012年2月16日木曜日

京都市交響楽団(5)         コントラバスを持って走るアルバイト

初日の練習は21時に終わって練習場の鍵を閉めて外に出ると22時過ぎになる。広上氏は終了後も私と何も言葉を交わさずに控え室に入り、タクシーに乗り込んで練習場を後にした。事務局員が車寄せに並んで深々と最敬礼し、私もそれに従った。仕事の後はほぼ連日、音楽主幹の新井氏と飲みに行っていた。

翌日も練習は15時30分スタートだったがこちらは9時半には出勤する。仕事が始まって9日、予定表ではこの間に公休日が4日有ったが、事務局のシフトが決まらないので実際は休みは1日もなく、事務局全員が毎日出勤していた。新井氏は「全員が集まって話し合いがもてないので、シフトが決められない」と言っていたが、はじめからシフトの決め方に異論があって話を持ち出すのが億劫な様子だった。話し合っているよりも音楽主幹、副音楽主幹の二人が毎日出勤していれば何とかなるという様子だった。練習場での仕事には徐々に慣れ、面接の時とは違って女性陣の中にもこちらから「おはようございます」と挨拶をすれば、顔を見て挨拶を返してくれる人も現れた。京都市交響楽団はこの年から京都市音楽芸術文化振興財団に移管されたため、事務局機能の一部は京都コンサートホール内に移され、業務や会議が2カ所で行われるため、仕事の能率はすこぶる悪かった。しかし、桜が満開の鴨川の土手をコンサートホールまで往復すると、事務局内の雰囲気を吹き飛ばしてくれるくらい絶景で、気が紛れた。

仕事の方はファイルが持ち去られたのではかどらず、私はライブラリや楽器など備品をリストと照らし合わせたりして練習の開始を待った。2010年度の定期演奏会のプログラムなどがほとんど決まっておらず、新年度を迎えてやらなければならないことが沢山あるはずだったが、事務局全員で集まって話し合いがもたれることもないまま、1週間以上が過ぎていた。何より広上氏の意向がわからなければ翌年の予定など立てられるはずもない。

信じられないことに雇用契約書がまだ交わされておらず、正式な雇用の条件もまだ伝えられていなかった。仕事が始まって10日あまりになるのに健康保険証もまだ渡されていなかった。ホリプロの子会社はもちろん、ブラック経営で話題になっている高崎の堀越学園ですら健康保険証は赴任したその日に用意されていた。さすがに事務に電話をして早く健康保険証を用意し、服務規程や自分の等級が何級何号になるのかなどを教えてくれる様に要求する(健康保険証は結局ゴールデンウィーク明けまで渡されず、子供が風邪をひいて受診の際に無保険扱いになったり面倒なことが起きる)。

出町ふたばの豆餅は受けが良くなかった様だが、私も武蔵野音大で鍛えられただけ有ってそのくらいではへこたれない。翌日はクレームデラクレームのシュークリームを買って指揮者控え室に届けた。この日は一言二言会話することができ、広上氏はどうやらシュークリームは気に入ってくれた様だった。翌日のスプリングコンサートの際に新井氏から「大阪公演の後に広上氏と飲みに行くことになったので直接話ができる」と伝えられる。

スプリングコンサートは私がマネージャーとして立ち会った京都市交響楽団の初めての公演となる。しかし、音楽主幹の新井氏をはじめ事務局のほとんど全員がフロントに配置されたため、舞台裏の進行がどうなっているのかはほとんどわからなかった。しかもフロントに配置された平竹耕三ゼネラルマネージャーをはじめとするマネージャー、事務局長達の仕事とは主に来賓に挨拶することであり、一般客も多く来場する通路に並んで副市長など京都市幹部、スポンサーなどには深々と頭を下げ、一々紹介や挨拶が続いた。事務局員や私は入場者に定期演奏会の案内を手渡す様に指示された。それ自体は必要なことなのだろうけど、私はむしろ舞台裏の進行がどうなっているのかが気になった。しかし、汗ばむ様な陽気で桜も満開の中、スプリングコンサート自体は無事終了した。

ところで、京都市交響楽団の練習場は烏丸鞍馬口から鞍馬口通りを入った鴨川沿いにある。京都市交響楽団のホームグラウンド、京都コンサートホールまでは歩いても行ける距離だがホールには楽器庫も練習室もなく、また同じ財団が管理しているのにホールリハーサルはごく稀である。楽器楽譜は練習の度にすべて移動させなくてはならない。翌々日の大阪公演の練習のため終演後大型楽器や打楽器をトラックに積み込み、練習場に移動させる。その際に小さな事件が起きる。アルバイトの学生達がコントラバスを持って走っているのに遭遇したのだ。京都コンサートホールの搬出口は舞台下手側(客席から見て左側)にある。スプリングコンサートでコントラバスは右側配置だったので打楽器の搬出と導線が重ならない様に、コントラバスは舞台上手から運び出し、舞台裏のホワイエを通過して搬出口に運ばれていた。ステージマネージャーの日高氏の他にアルバイトが2、3名入っているが、確かに搬出口までの距離が長いので、7本のコントラバスを運び出すのに時間がかかる。しかしコントラバスを持って舞台裏を走るというのは私から見ると常識外れだ。もし何かにぶつけたり、転んだりして楽器を破損すれば翌日の練習や次の公演にも影響が出る。何本目かのコントラバスを持って走っているアルバイトに「楽器を持って走らないでくれるかな」と声をかけるが、何の返事も反応もない。仕方がないので搬入口で積み込みをしている日高氏の所に行く。「アルバイトに楽器を持って走らない様に言ってくれますか」私の言葉に対して日高氏は不愉快そうに言い返した。「うちはずっとこうやっていますから」。私は耳を疑った。

(続く)

2012年2月6日月曜日

京都市交響楽団(4)         ファイルが持ち去られる

広上氏は練習場に入ったが、練習はなかなか始まらなかった。新旧事務局長はじめ交替する役員が1人3分ほど挨拶したからだ。オーケストラの練習時間がいかに貴重な物か知っている私はかなりやきもきした。ご存じの方もあると思うが、マーラーの時代のウィーンと違ってプロのオーケストラの練習時間という物は、短縮することはあっても伸びることはない。予定の時間を3分も過ぎよう物なら団員は立ち上がって帰ってしまう。サービス残業などもっての他だ。勤務時間無制限で残業も一切付かないマネージャーとはまったく違うのである。私も紹介されたが「辞令交付式」の際にも挨拶していたので(その時来ていない団員も多かったが)自己紹介は名を名乗って「何か問題点があったらご相談下さい」と言っただけで、挨拶は10秒で終えた。

離任する吉田事務局長は通常の挨拶だったが、新任の並川哲男事務局長は挨拶が終わると「これは強制ではないのですが」と前置きしてから「今年度から団員の皆さんに、公演終演後、お客様のお見送りをお願いしたい」と告げた。大阪のあるオーケストラで、公演終演後団員がホールの入口に並んでお見送りをして好評だというのである。

指揮者の広上氏が会場入りして待っているのに、練習は10分以上遅れて始まった。この日から京都コンサートホールでのスプリングコンサートと、大阪シンフォニーホールでの演奏会、2公演分の練習が入っていたのでスケジュールはタイトだった。しかも京都と大阪でダブっているプログラムは「ラプソディ・イン・ブルー」だけ。それも京都は小曽根真氏、大阪は山下洋輔氏がソリストだった。京都ではジュニアオーケストラのメンバーとの共演などが入り、大阪公演はメインが「悲愴」だった。

練習開始後事務所に戻った私は、初めて並川氏に意見した。「並川さん、せっかくのお話しに水を差すようで申し訳ないのですが、オーケストラが公演終演後にお見送りをするかどうかと言うのは、オーケストラの品格に関する重要な問題です。市の決定だとしても年度が始まったばかり、事務局内で話し合いもなしに、いきなり発表するというのはいかがな物ですか?」。これに対して並川氏の話は「これは強制ではない。やりたくない人はやらなくても良いのだから、いちいち相談する必要はない」というものだった。

私が反対な理由は概ね以下のようなことである。
まず、オーケストラは公演終演後、楽器を片付けなくてはならない。片付けにかかる時間は楽器にもよるが、楽器係が搬出してくれる打楽器や、大型楽器、ぬぐってケースに入れれば終わりな物もあれば、分解して内部の水分を取ってケースに収めなくてはならない物もある。高価な楽器を楽屋に置きっぱなしにして出てくるのは心配だ。オーケストラが立ち上がれば聴衆は出口に向かうので楽屋から出口までの距離にもよるが通常楽器を片付けて出口まで走ってきても、かなりの数の聴衆はすでにホールを出てしまっている。楽器に事故が起こったりするリスクを冒してまでホール出入り口に走るのはどうか?

次にシーズンと照明、ホール内の温度などにもよるが聴衆が快適に音楽を聴ける温度を優先しているコンサートホールの舞台はとても暑い。ほとんどの人が汗をかいているし、演奏が終わったら演奏者は本来いち早く着替えたいのである。

そして、これについては人それぞれの意見があろうが、私の反対する最大の理由はオーケストラの団員が終演後客席に向かって立礼するのは、伝統的スタイルとして最大礼であり、拍手が終わって舞台を後にする時に各自が一礼するのは良いとしても、団体客の見送りをする場末の温泉旅館の仲居よろしくホールの玄関に並んで見送りをすると言うのはオーケストラの品格にかかわる問題なのである。N響も読響もやらないし、もしベルリンフィルやウィーンフィルでそんな提案をする事務局長がいれば、仮に「強制ではありませんが」と言ったところで恐らく即時解任されるだろう(ちなみにヨーロッパのオーケストラでそんな事をするところはない)。京都市交響楽団は日本のオーケストラの中でも非常に伝統と格式のある、格調高いオーケストラである。私はこのような「悪しき習慣」を受け入れて欲しくなかったし、それは京響のためにならないと真剣に思ったのだった。

オーケストラの団員は演奏に全身全霊を傾けている。終演後、舞台裏に退出する時はぐったりしているし、リラックスしたいのだ。ホールの玄関まで狭い通路を走っていって、聴衆にスマイルを振りまく余裕など本来ないし、あるべき物でもない。第一知り合いと話し込んだりすれば聴衆の退出が終了するのが遅れる。下手をすると退館時間が押してしまうことすらあり得る。私に言わせれば、オーケストラが終演後ホールの玄関でお見送りをするなどと言うのは醜悪な上に百害あって一利なしなのである。

しかし、私は上記のような反対意見は並川氏に言わなかった。単に「重要なことだから、事前にご相談いただきたかった」。と言っただけである。しかし、内心この人はオーケストラの団員の立場や気持ちがわかっていないのではないか、とは思った。

しかし後で考えるとこの「お見送り」は京都市幹部が「オーケストラ団員の忠誠心を確かめることができる」という陰湿でしたたかな下心が込められていることは、まだわからなかった。

そしてこの日、私が1週間かかってようやく集めた様々な資料が入ったファイルが、デスクの上から何者かによって持ち去られ、1週間分の仕事が最初からやり直しになった。


2012年2月4日土曜日

京都市交響楽団(3)         京都市は職員の犯罪や不祥事が極めて多い

4月はじめの1週間は、まず資料に目を通そうと思った。特に財務関係の諸表は見ておきたかった。また、楽員の勤務条件やシフトがどうなっているのかも知りたかった。私はオーケストラでマネージャーとして働くのであれば、できるだけ音楽的レベルの向上を図れるような条件を考えつつ、経営の改善につなげていきたいと考えていた。それは18年前に高崎でオーケストラアンサンブル金沢の経営について質問した時と変わっていなかった。オーケストラの経営改善は賃金カットや人減らしではなく、定期会員や依頼演奏会の増加、公演全般のチケット売り上げの増加によって行えるはずだというのが私の信念である。その為にはまず魅力的なプログラム作り、指揮者やソリスト、そして合理的なシフトによって練習の質を高めることが何よりである。

しかし、早くもはじめの1週間で次のようなことがわかってきた。まず、バランスシートは内外共に公表されていない。予算書は「人件費を除いた」大雑把な収入、支出が公表されているだけであり、それ以上は内部の人間でも閲覧できない。また、マーケティングリサーチは過去に行われたことがない。演奏会の際に何度もアンケートが行われているが、例えばどの年齢層がどの地域からどの演奏会に来たのかや、定期会員の年齢や性別、居住地域などによる分布は集計も電子化もされていない。広告も、どのような媒体にいつ、どれだけ露出し、その結果どれだけ集客に結びついたのかを集計したデータは作られていない(あるいはデータが取られていない)。

過去のデータの中で唯一電子化されていたのは、創立以来の演奏曲目などプログラムとライブラリーの関係だけだった。アンケートなどはすべてファイリングされて紙データで保管され、集計されて電子化されているのは一部だけだが、毎回アンケートの形式が違うので統計としてはまったり利用不可能な物だった。

数日すると「ジュニアオーケストラのオーディション」というのがあったが、参加したのは数人だけだった。一応業務として行われているはずなのに、かなり酒臭い人がいた。聞けば花見からそのまま直行したらしいが、あまり感心できるはなしではない。私は特に何も言わなかったが、資料を閲覧するうち練習に酒を飲んで出勤したメンバーの問題などが指摘されており(そのメンバーは早期退職したが)問題意識が低いのではないかと感じられた。また、楽器庫や楽器の保管場所が整備されておらず、私物と団の楽器の管理がきちんとされていない事もわかった。山台周辺などにケースが大量に置いたままになっており、打楽器の保管場所も不足していた。あろうことか、過去には団所有の楽器を勝手に売却した人もいたそうだが、その人も処分など受けず、自ら早期退職したということだった。

京都市は職員の犯罪や不祥事が極めて多いと言うことも、京都市交響楽団に赴任してから初めて聞いた。また、刑事罰を受けても解雇されない職員が多いと言うことも聞いて、驚いた。

さて、そうこうするうちに初めてのリハーサルの日がやってきた。私はリハーサルを聴けることも、広上氏と会えるのも楽しみにしていた。4月のはじめなのに汗ばむような陽気だった。練習は午後3時半からだった。指揮者の控え室には飲み物が用意されていたが、何もお茶請けがないのに気がついて、私は昼休みに出町までいって出町双葉の豆餅を買ってきておいた(もちろん自腹で)。新年度初めての練習だし、通常指揮者は早めに控え室に入る物なので、少しは会話ができるかと待ち構えていたが、広上氏は練習開始の15分前まで現れなかった。しかも、広上氏が現れるや財団幹部から新旧事務局長まで、役員が勢揃いして一人二人ずつ控え室に入って挨拶をし、私は後列に待たされて一言紹介を受けただけだった。広上氏は自分だけ座ったままでうなずいているだけだった。私は「お茶請を買っておきましたから召し上がって下さい」と言うのがやっとだった。

その直後、信じられないことが起こった。広上氏は立ち上がって豆餅の包みを持ち上げると、離任する藤田係長に渡し「これ、あんたにやるよ。毒が入っているから」。そう言って練習場に向かっていったのだった。

(続く)

2012年2月3日金曜日

京都市交響楽団(2)         京都市幹部との面談とその後

京都市交響楽団練習場での吉田事務局長らの面接は短時間で終わり、その晩京都コンサートホールで京都市文化市民局文化芸術都市推進室長、平竹耕三氏と引き合わされた。面接と言っても居酒屋で雑談をしただけで、何も具体的な話をしたわけではなかった。2009年2月27日、新井氏から採用の内諾が出たとの知らせを受けた。京都市交響楽団は2月28日に東京のサントリーホールで演奏会を行うことになっていたので、当然それに合わせての内諾で、常任指揮者広上淳一にも紹介を受ける物と思っていた。マネージャーとして交響楽団で働くためには、常任指揮者とのコミュニケーションは重要である。採用が決まったのなら当然真っ先に挨拶するべき人物だ。ところが新井氏は「内諾はまだ部外秘で、28日には会場に来ないで欲しい」という。この事が後で広上淳一とのトラブルの一因となる。この段階で新井氏、京都市の幹部と広上の間で何が起こっていたのかはよくわからない。

3月に入ると新井氏を通じていくつかの連絡が入る。まず、京都に引っ越すこと。これについては家族全員で引っ越せばまとまったお金がかかるし、札幌のことからしても内諾の段階では何が起こるかわからない。面接の際の交通費すら出してくれなかったのだから、引っ越しの費用などとうてい出してもらえない。それにまだ辞令も出ていなければ雇用契約も結ばれていないのだ。とりあえず単身者向きのマンションを借りて私だけが京都に引っ越すこととなった。
次に住民票を京都に移して、さいたま市の健康保険を脱退するように言われた。少々不安が残るが、3月末には京都に移動し、住民票を移して保険の脱退手続きをする。3月31日には尾高忠明指揮によるマーラーの5番が演奏されることになっていた。これもできれば練習から聴きたかったのだが、同様に新井氏から「まだ正式に勤務していないのだから、練習場にも演奏会にも来ないで欲しい」と言われる。私はヨーロッパ的なオープンな感覚だが、それは別として日本的な感覚でもそろそろ「おかしい」と感じるようになってきた。こんな異常な事態があるだろうか?

さて、いよいよ3月末に、4月1日の「辞令交付式」の案内をもらう。「辞令交付式」は京都コンサートホールの小ホール「アンサンブルホールムラタ」で行われることになっており、かなり異様なことにオーケストラ全員の座席まで指定されているのだった。この年の4月1日から京都市交響楽団は京都市音楽芸術文化振興財団に移管されることとなっており、楽団員全員が財団の非常勤嘱託職員となる事が決まっていたのだった(この事についてはいずれ述べる)。
わざわざホールを使って行われたこの「辞令交付式」で3通の辞令が交付された。1通目と2通目は京都市長、門川大作名、3通目は京都市音楽芸術文化振興財団理事長名の、いずれも「人事異動通知書」である。1通目には「非常勤嘱託員に採用する」2通目には「財団法人京都市音楽芸術文化振興財団に派遣する」3通目には「京都市交響楽団サブマネージャーを命ずる」と書かれていた。壇上には平竹氏ら京都市と財団の幹部が並び、新井氏と私、それにこの年新規に採用された楽員の代表がこの「辞令」の交付を受けるだけのために集められたのだった。
当然初日に渡されるだろうと思っていた、健康保険証や雇用契約書、労働条件や勤務形態に関する書類などは一切無かった。辞令交付式の後は京都市、財団幹部とマネージャーだけが別室に集められた。交響楽団の運営形態が変わることで何か説明があるのかと思ったがそのような話しはなく、平竹氏の口から出たのは「しばらく演奏旅行に行っていないので、どこかに行きたい」などという非常に危機感のない話だった。私は今までの経緯からしても、新参者が何も言わない方が良いだろうと思って単に調子を合わせていた。

翌日から楽団はジュニアオーケストラのオーディションに出席する楽団員を除いて1週間の公休日に入った。予定表を見てわかったのは「異常に演奏回数、楽団員の出勤回数が少ない」ということ、事務局は年度が替わっているのにまだシフトも発表されておらず「休みがまったくないらしい」ということだった。「早く広上氏と会って話がしたい」という私の希望は入れられなかった。事務局スタッフは事務局長、係長とも移動となり、事務所には前任者の荷物、廃棄する資料などが山積みになったままだった。

(続く)

京都市交響楽団(1)         初対面の来客に挨拶しない事務局員達

京都市交響楽団音楽主幹、新井浄氏から「京都市交響楽団を助けてくれませんか」という悲痛な電話がかかってきたのは2009年1月のことだった。15年以上にわたって群馬交響楽団事務局次長を務めた(事務局長には経験の如何を問わず件から天下りした人間しかなれない)新井氏とは20年来の付き合いで、私の紹介でクルト・レーデルマーク・アルブレヒトといった指揮者が群響に客演した。ペーター・シュミードルをはじめ様々なソリスト達の通訳も務めた。但し、私自身は音楽教室の指揮にすら呼んでもらったことはない。

新井氏は2008年京都市交響楽団音楽主幹となったが、京都市は当時すでに財政再建団体すれすれの900億円を超える赤字を抱え、京都市交響楽団も3年間で1億3000万円の予算カットを迫られていた。京都市の嘱託職員だった楽団員も全員が外郭団体の「京都市音楽文化振興財団」の非常勤職員に移管されることが決まっていた。京都市はこれまでにも非常勤嘱託職員を一度に大量に雇い止め(=契約を更新しないこと)して裁判が多発している。財団に移管された場合、財団の経営が悪化すれば一気に全員解雇、解散と言うこともあり得る。楽団存続の危機の中、常任指揮者の広上淳一は梶本音楽事務所(当時、現在は株式会社AMATI)の荒井マネージャーとともに人事をはじめとする様々な問題に干渉し、曲目も多額のエキストラ代が発生する大編成の曲ばかりを演奏するほか、自らを客演に招いてくれる国内の他のオーケストラの常任指揮者たちばかりを京都市交響楽団の客演指揮者に招き、定期演奏会の顔ぶれはほぼ固定化されていた。

ヨーロッパのオーケストラの事務局長は通常指揮者やオーケストラソリストクラスの音楽家が兼務することが多い。カラヤンを大成功に導いた、当時のベルリンフィルの事務局長シュトレーゼマンは自らが指揮者であった。バンベルク交響楽団の事務局長を長年勤めたロルフ・ベック氏はドイツでも著名な合唱指揮者であり事務局長と「バンベルク交響楽団合唱団」の指揮者を兼務していた。日本の地方オーケストラの事務局のほとんどで、トップに座っているのは県庁や市役所から天下りした役人、または何らかの理由でリタイアした(現役ではない)元オーケストラ団員だ。新井氏も「クラシックが好きで合唱の経験がある」という程度の理由で高崎市役所から群馬交響楽団事務局に出向させられたが、他に人材がいないとの理由で15年の長きにわたって群響に務めたのである。

その新井氏が私に声をかけたのにはもう一つ理由がある。2003年、札幌交響楽団が新聞や音楽雑誌に公告して事務局長を公募した。札幌交響楽団は前年までに財団の基本財産のほとんどを「金利が高い」という見かけ上だけの理由でジャンク級のアルゼンチン債に投資し、アルゼンチンのデフォルトでほぼ破産状態となって理事会が総辞職し、事務局もメンバー全員を入れ替えることとなって存続の危機に瀕していた。音楽に関する知識どころか経営に関する知識もまったくない、こんなデタラメな経営が行われていたのだ。理事会の総辞職を受けて北海道新聞から送り込まれた佐藤光明専務理事は、外部から人材を入れるため事務局長を公募することにしたのだった。私はこの公募に応募して様々な推薦状、小論文などを提出し4月末に佐藤光明専務理事(当時)から内定の通知を受けた。ところが佐藤専務理事は専横で楽団経営をすることが面白くなってしまったらしい。札幌交響楽団は私の赴任時期を次々と引き延ばし、その間に佐藤氏がデタラメな経営を行って楽団員達は眉をひそめたらしい。2003年秋には「舞台での歩き方が悪い」などと言ってファッションモデルのウォーキングコーチを呼び、楽団員達に延々「歩行の練習」をさせたらしい。その際にソリストの女性にまで「あんたもやるか?」と声をかけたそうで、ソリストから苦情を受けた指揮者の円光寺氏が抗議し、円光寺氏の元に大量のカニが送られてきたが円光寺氏は受け取らなかったらしい(関西のオーケストラ事務局談)。2003年末に同理事から私に「申し訳ないが音楽監督尾高忠明の意向で、元大阪フィル事務局長の宮澤敏夫氏が事務局長に選ばれた。杦山さんには時期事務局長と言うことでご了承頂きたい」という連絡があったのだ。オーケストラが事務局長を一般公募し、一度内定を出しておきながらその人事をひっくり返して情実で業界内の人間を採用するなどと言うのは大スキャンダルである。当時はまだチェコでの講習会や客演指揮なども入っていた物をキャンセル、しかも半年以上も待機させた上の話で、私はキャンセルや休業に関して何の保証も得ていない。しかし私は「業界内であまり波風を立てない方がよい」と思っていたのですぐに裁判を起こさなかったのが大失敗であった(カニは送られてこなかった)。

新井氏はこの公募の件で憤慨しており、札響が公募で内定した人事を反故にして情実で事務局長を決めた話は業界内ではかなり広がっていたのである。また前年、私が新国立劇場で自ら指揮して上演したR.シュトラウスの歌劇「ナクソス島のアリアドネ」の著作権を巡って、弁護士を立てずにすべての裁判に勝訴し、日本におけるR.シュトラウスの戦時加算無効を証明した事もあって、アートマネージメントや著作権、そして何より音楽の世界の裏も表も知り尽くしている私をマネージャーとして京都市交響楽団に迎えたいと思ったのである。

2月中旬、私は吉田事務局長(当時)、平竹耕三市民文化室長(当時、後の京都市交響楽団ゼネラルマネージャー)の面接を受けるために京都を訪れた。初めて行く鴨川沿いの練習場に、新井氏が説明したとおりに行こうとしたが、路地を一本見落としてしまった私は鴨川の土手に出てしまった。何のことはない練習場の正面玄関が見えたので私は約束の時間通りに建物に入って行った。するとそこで信じがたいことが起こった。事務所内にいた三人の女性は、名を名乗って挨拶し、要件を告げている初対面の私に挨拶をせず、顔さえ見ず、単に係長を呼びに行ったのだった。私は啞然としたが係長は会釈して新井氏を呼びますと言い、間もなく新井氏が小走りにやってきて私が説明されたとおりの入口から入らなかったことを責めた。どうやら、事務局の三人の女性たちはすでに新井氏とは険悪な関係にあり、なおかつその日にどのような人物がどのような用件で現れるのかはわかっていたので、そういう態度を取ったらしい。そして、新井氏は私にその状況を前もって詳しく説明せず、しかも事務所のある練習場に私を呼んで、事務局長と面談をさせたのだ。そこで「説明した道順通りに練習場に来て、裏口から入って欲しかった」らしいのだ。

私は以前にも京都で仕事をしていたことがあるので、京都というのがむずかしいところだと言うことは知っている。しかし、初対面でどういう人物かも知らない人間に会釈も挨拶もせず、顔さえ見ようとしない人間達(それも30過ぎの大人である)が居るのかと思うと、暗然とした気持ちになった。

その後の京都市交響楽団での事件についてはこちらに続編を書きます。

2012年1月30日月曜日

堀越学園で働く

後の創造学園大学、高崎芸術短期大学の母体となる堀越学園は堀越久良、嶋子夫妻が1966年、幼稚園を運営するために設立した。東京の堀越学園とは別団体である。1968年に高崎保育専門学校、1981年は高崎短期大学音楽科が設立された。作曲家入野義朗氏の遺志を受けて洋楽科と邦楽科を併設し教授陣には作曲家一柳慧氏、箏の沢井忠夫氏など著名な音楽家が名を連ねた。建学の理想とは裏腹に学園の運営に異変が起きるのは1980年代後半に小池哲二氏(小池哲二、小池大哲、堀越哲二、堀越大哲すべて同一人物)が副学長に就任した時だ。

堀越夫妻には実子がいなかったが、関係者の話では「どうしても血のつながっている人間に学園の運営を譲りたい」と小樽商科大学を卒業して大阪府吹田市の職員となっていた小池氏を養子とし、まずは事務長として堀越学園に迎え入れた。本来芸術専攻でもなく、芸術系の大学の学長となるような器でもなかった小池氏だが、まもなく自ら副学長に就任し、カリキュラムを含む学校の運営を独占するようになる。1988年には美術科を増設し、名称を高崎芸術短期大学としたが、当初から設備や教職員の数などが大幅に不足していた。

高崎芸術短期大学では学長の思いつきで日本庭園「水琴亭」の造営や年に数回の学園祭など様々なイベントが繰り返され、ことごとく失敗に終わっていた。学生の誘致につなげようと始めた「高校生国際音楽コンクール」では上位入賞するような優秀な学生はこの大学には寄りつかず、漫画家のやなせたかし、詩吟の笹川鎮江と学長が利用できそうな人物と知り合う度に部門を増やし、収拾が付かなくなっていた。海外の学校制度に無知なため日本の「高校」に該当しない年齢の受験者がいたり審査にも学長自身が口出しして審査員とトラブルが絶えなかった。小池氏が学長になるとまもなく一柳氏や沢井氏のような著名な教員はほとんどがこの学校を去った。多野郡の寺院から「三福像」なる物を借りだして「三福庵」なる物を建立し、高崎高校近くの校地に井戸を掘って「三福庵の水」という水を汲んで「ガンに効く」などと言って売り出したのもこの頃だ。

私の仕事は「オーケストラの指導」だったが、この「堀越学園オーケストラ」も前々年度に学長の思いつきで始めたものの、当然のことながら指導者もいないのでまったくうまく行かず、翌年太田ジュニアオーケストラの南伸一氏を非常勤で指導に招いたが、学長と対立して一年でやめさせてしまい、94年の春は非常勤講師ですらないアルバイトのような人が週に一日だけ来ることになっていた。ヴァイオリンやコントラバスなどは専攻の学生が2学年で1人ずつしかおらず、専科の学生でオーケストラができるような状況ではまったくないのに、ピアノや声楽、箏などの学生の副科に、保育専門学校の生徒まで必須単位にしてオーケストラに参加させていた。その上、1年生、2年生を別々の時間にしてあるので、本来履修している時間の前後に任意で参加させてやっと各楽器がある程度揃う程度だった。

私は1994年3月中に数回学校を訪問して、前年度までの状況、履修者の人数やレベル、楽器や楽譜の状況を詳しく調べた。

管楽器は専攻の学生で何とか人数が足り、足りないところも中高のブラス経験者がある程度の人数いるので揃えることができた。弦楽器は韓国製の1本1万円くらいの(当時の韓国製は本当に酷かった)ヴァイオリンが30丁ほど、その他の楽器も一応の本数がリースされていたがいずれもあまりに酷いので返却してドイツ製の物をその半分ほどの本数入れてくれるように要求した。

3月の最終週からは毎日出勤した。4月からは専任講師として週5日出勤することになった。当時は事務は比較的しっかり機能しており、初日には健康保険証などの必要書類を渡された。雇用契約はなかった。学長からは「高崎に骨を埋めるつもりで来て下さい」「高崎に引っ越して欲しい」などと言われたが、そう言われてきた教授や講師のほとんどが半年から3年ほどで退職したり、解雇されたりしていることを知るのにそう時間はかからなかった。

4月になって実際授業が始まると、副科の学生も意欲が高く弦楽器でも1年間で1ポジションの音階くらいは弾ける学生が多かった。そこでヴァイオリン、ヴィオラ、チェロだけ月に一回国立音大のOBを呼んで楽器毎に指導してもらうことも決まった。週に一日、金曜日に1コマ1時間半の授業が1年生、2先生と連続であるが、可能な限り1年生は2年生の時間、2年生は1年生の時間も参加するように呼びかけて、実際かなりの数の学生は連続で授業に出席した。但し、レッスンだの行事だのが入ってかなりの数の学生がまとめて抜けることもあった。

私が授業として持ったのはこの金曜日の2コマだけだが、授業の準備にはものすごく時間がかかった。まず、楽器のうちすぐに使える状態の物は半分もなかった。弦の切れた弦楽器、音のでない木管楽器、バルブの動かない金管楽器などが沢山あり、授業に来ても座っているだけの学生が半分くらいいて、交替で楽器を使っていた。弦が間違ったペッグに巻かれていて、チューニング中に切れてしまう物もあった。4月中にリースされていた韓国製の楽器はすべて引き取らせ、ドイツから届いた弦楽器については専門の職人を呼んで再調整し、管楽器は主に私が楽器庫にこもって調整した。それより非常に手間がかかったのは、1ポジションでほぼ弾けるように、様々な曲の弦楽器のパートを書き直し、それに伴って欠けている弦楽器の部分を補うように管楽器のパートも書き直すこと、つまり演奏するすべての曲をほぼ全面的に編曲しなければならないことだった。授業時間以外は学長の気紛れで学校案内やコンクールの要項など様々な印刷物の制作「国際教育研究所」の管理などにかり出された。印刷物は校正刷りができてから何度も修正が入るのが当たり前だった。他の教員は授業を放り出して学生集めの営業に行かされていたが、私は免許を持っていないのでそれが割り振られないだけましだったかも知れない。学校見学の前などは全教員と学生が動員されて「除草」を行ったりした。
週5日の出校日は8時の「朝礼」までには出校してタイムカードを押し、毎日高崎を22時40分に出る、上りの最終新幹線で家に帰った。新幹線での通勤が認められるのは運が良いらしかった。

連休が明けてしばらくするまでには、この学校で何が起こっているかが概ねわかった。

(続く)

2012年1月29日日曜日

再び採用を取り消される

1994年3月、ミュンヘンから戻った私に埼玉県芸術文化振興財団の準備室から呼び出しがあった。県の部長という方の説明は、以下のような物だった。
「さいたま芸術劇場は前の知事(畑やわら)の肝いりで作られたが、知事が替わって現在の知事(土屋義彦)は芸術劇場の運営にあまり乗り気ではない。そこで予算がカットされて職員も減員されることになった。28人採用されるはずだった職員は22人に減らされるので今回の採用は見合わせる。杦山さんには申し訳ないが、次回に採用がある時には優先して採用するので、今回はご了承頂きたい」。採用を取り消された6人の中に、私が入ったことについて、武蔵野音大を自主退学したり、悪い評判を立てられていることがどれほどマイナスだったかは知る由もない。高崎でのシンポジウムで、創設間もないオーケストラアンサンブル金沢の音楽家達の将来を心配した私だったが、奇しくも僅か3年後に自分自身が、自治体の首長の交代による文化政策の変更による犠牲者となった。リンクを読んで頂ければわかるが、上記の二人の知事はいずれも談合や汚職などにかかわり、大変に評判の悪い人たちだった。

また、こうした施設運営に役立てたいと日本人として初めて、自ら大枚をはたいて行ったミュンヘンでのインターンによって得られた経験や知識が、郷土の文化振興に役立てられる機会はなくなった。ミュンヘンでの経験は誰でも出来る物ではなく、長期にわたってのミュンヘンフィルの楽員との交流、複雑な専門用語を理解できるだけのドイツ語力が有ってこそ得られた物だ。施設のハード面での運用や、契約書、アンケートやマーケティングリサーチなど、いずれも音楽そのものについてかなり理解した上で、高度なドイツ語力がなければ理解できない。その後も文化庁などから「実績のある」方々が「公費で」派遣されているが、元々の音楽に対する知識と、必要充分な語学力がなければ短期間の留学がどれほど役に立つかは疑問である。

もちろん「次回に採用がある時には優先して採用するので」というのはエクスキューズであったことは言うまでもない。こういう約束は担当者が替われば通常反故にされる。

そうした中、高崎芸術短期大学から「講師として働いてみないか?」という申し出がある。
前の年のウィーン・コンツェルトハウスでの演奏で、すっかり私の顔を潰したことに対する埋め合わせである。4月から始まるはずだった仕事のなくなってしまった私は、喜んで講師の話を受ける事にした。ワンマン学長の独裁が不安ではあったが「あれだけ人に大恥をかかせて、迷惑を掛けた自覚があって埋め合わせをするのだから、そう酷い扱いはするまい」と思っていたのが甘かったのがわかるまで、数週間とかからなかった。

(続く)

2012年1月28日土曜日

ミュンヘン、ガスタイクでのインターン

2晩目のモーツアルトホールでの伝統的な邦楽のみの演奏会はそこそこに客も入り、ポピュラーな作品だけであったことから反応もそう悪くなかった。翌日、新聞に2回の演奏会の批評が出た。はっきり言って疑問符のつらなる酷評であったが、ドイツ語のわからない一行は「新聞に出た!」と言うことだけでご満悦であった。しかし1晩目の演奏会のできに関する自覚症状はあったようで、私が「私はもうウィーンで仕事はできません」と言うと流石の小池氏もばつが悪そうな表情を浮かべていた。

小池氏はウィーンでは美術館にもオペラにも興味がないようだった。宮下氏の提案で翌日から2泊、一行をザルツカンマーグートに案内した。まだ「Hotel Post」と言われていた「白馬亭」の新館に着くと、3日間ほとんど寝ていなかった私は打ち上げを早めに切り上げて泥のように寝た。小春日和だったザルツカンマーグートは途中から雪が降り始めた。

一行が大満足で帰国した後、私は気の重い残務整理にコンツェルトハウスに向かった。本当はギャラなど辞退したいところだったがそうも行かなかった。インテンダントもプロデューサーも、どちらかというと私に同情してくれていたが、ヨーロッパから日本に招く演奏家についてはあれほどこだわりのあった私が「専門でない」というだけで、事前に演奏チェックをするなり他の人選をするなりキャンセルを出すなりしなかったのは完全にミスだ。ヨーロッパの演奏家だったら自分のパートナーを選ぶに当たっては自分自身の評価がかかわってくることがわかっているし、こういう人選は絶対しない。しかし、日本の演奏家は情実の方が大事になる事があるのだと言うことがわかった。

話は前後するがこの年の春、私は新しくできる「埼玉県芸術文化振興財団」の採用試験を受けた。試験は1次、2次とあってアートマネージメントばやりだったこともあり、1次試験は1000人以上が受験し、川越の大きな大学のキャンパスを使って行われた。内容は1次が通常の公務員採用試験のような内容、2次が別日程で「埼玉県の芸術振興には何をすればよいか」の様な小論文だった。会場に着くと皆公務員試験の例題のような問題集を抱えているので、何も準備していなかった私は驚いたが、ともかく1次も2次もパスして採用枠の28人の中に選ばれた。私は翌年の業務開始前にドイツのアートマネージメントを勉強しておこうと、レーデル師匠やミュンヘンフィルのメンバーを通してミュンヘンの複合文化施設「ガスタイク」のインテンダントDr.ハインツに連絡を取り、翌年1月から2ヶ月間ガスタイクの事務局でインターンを行うこととなっていた。インターンは僅かな報酬が出るが、もちろん航空運賃や滞在費は私費である。ウィーンから日本に戻り、様々な準備をして12月末再びミュンヘンに向かった。インターンは1月はじめから始まった。

ガスタイクはドイツでは珍しい複合文化施設でミュンヘンフィルのホームグラウンド(当時はまだチェリビダッケがシェフ)であるフィルハーモニーの他、3つのホール、市民大学、市立図書館が同居している。マネージメントはそれぞれ独立しているが、催しは連携が図られて調整される。ガスタイクでの業務は主にマーケティングリサーチ、アンケートをどのような方法で行うか、アンケートの質問項目や回収方法の検討などだった。聴衆の嗜好や家からの距離、支出できる金額などを詳細に調べることが重要で、定期的にアンケートが行われてマーケティングリサーチの分析は自前で行われる。

こうした業務の他にハード面での施設を地下深くから天井裏までくまなく案内し、説明してもらった。ガスタイクは当時まだドイツでは珍しい完全空調の施設で冷暖房だけでなく湿度も一定に保たれている。壁面や大きなガラス面にも暖房装置があり、ホール内の空気は地下の水槽を通して加湿される。水槽内には巨大な紫外線灯が並んでいて加湿用の水は除菌される。ガスタイクが面しているローゼンハイマー通りはSバーン(近郊区間を走る電車)の主要路線で、8系統のSバーンが数分おきに通過するが、その騒音がホール内に伝わらないようにするためにも細心の注意が払われている。

フィルハーモニーは東京芸術劇場などと同じようなくさび形のホールで、舞台の高さ、反響板や音響反射板の形状や向きは実際にミュンヘンフィルがここで演奏しながら調整し、何度も変更を加えられてきた(実際には大ホールの音響には今でも不満の声があるが)。

チェリビダッケは特別の場合を除いてすべての練習を1回目から公開していた。もちろんすべての練習がフィルハーモニーで行われた。私のミュンヘンでのトロンボーンの師匠、D.シュミットはミュンヘンフィルの首席トロンボーン奏者だったし、レーデル師匠も懇意にされていたので私もかなりの回数練習を見に行ったし、チェリビダッケにも紹介されていつも大きな温かい手で握手してくれた。チェリビダッケは日本人が大好きだったが、私はオーケストラの練習や公開レッスンでのチェリビダッケが少々苦手だった。しかしそんな事はもちろんおくびにも出さない。ヴァントなど他の指揮者の公開されていない練習も見ることができた。

結局この2ヶ月で私はかなりインサイダーとみなしてもらえるようになった。インターンが終了する時にはインターン終了の証明書と共にガスタイクの巨大な設計図、ドイツで一般的に主催者が演奏家と交わす各種契約書のひな形など沢山の資料をもらった(後に火災で焼失)。

しかし3月に帰国した私を待っていたのはがっかりするような知らせだった。

(続く)

2012年1月27日金曜日

ウィーンでの邦楽演奏会が命取りになった

そうした中、アートマネージメントの調査で知り合ったウィーン・コンツェルトハウスのプロデューサーから、1993年秋にコンツェルトハウスで行われる演奏会に邦楽器の演奏家を紹介して欲しいとの依頼を受ける。1993年、ウィーン・コンツェルトハウスではいくつかの現代音楽のシリーズを予定しておりその中でベルギーの作曲家アンリ・プッスールの邦楽器だけ(箏、尺八、三味線)のために作曲された作品「金閣寺」の演奏が予定されていた。その為にオーストリア側が出演料、航空運賃、滞在費のすべてを負担して日本の演奏家三名をウィーンに招きたいというのだった。プッスールの作品はシューベルトザールで演奏され、その他に邦楽だけの演奏をモーツアルトザールで一回行って欲しいとのことだった。

しばらく音楽の世界に身を置くとわかるが、この申し出は破格の条件だった。というのも、自動車産業などと違い音楽の世界では日本側が一方的に海外からアーティストを招いているのが現状で、日本のオーケストラや邦楽演奏家などが海外でツアーを行う場合、ほとんどが自ら持ち出し、ノーギャラで「演奏させて頂きに」行くか、文化庁、国際交流基金、地方自治体、スポンサーなどが経費を負担して、つまり招聘する側はほとんど何も払わずに行われているのがいまだに現状だからだ。もちろん、ごくわずかな有名ソリストや指揮者は例外であるが。

私は若手の演奏家に依頼することも考えたのだが、せっかくの機会になるべく良い演奏家を連れて行きたいと思い、まず箏演奏家の宮下伸氏に声を掛け尺八と三味線については宮下氏に人選を依頼することにした。これが致命的な判断ミスとなった。宮下氏は山本邦山氏ら一流の邦楽演奏家と度々共演していたし、演奏家としては現代作品の初演なども数多く行っている。しかし、宮下氏によると「一人20万円ほどのギャラでは一流演奏家は誰も行かない、私が学科長を務める高崎芸術短期大学(後の創造学園大学)の教員から人選する」ということだった。確かに出演者からしてみると、ギャラの出所が日本側かオーストリア側かと言うことはどうでも良く、単に金額の多い少ないで判断されるらしい。しかし、オーストリア側から矢の催促が来る中で人選はまとまらず、出発数ヶ月前になって宮下氏から「尺八は小池哲二(後の堀越哲二)学長、三味線は近藤幸子教授を同行したい」という連絡を受けた。私は7月からバイロイトにおり、その後ミュンヘンの総合文化施設ガスタイク(ミュンヘンフィルの本拠地、フィルハーモニーを含む大規模施設)でインターンを行う準備のため日本に戻って調整を行うことはできなかった。

私は急に不安になってきた。小池学長の尺八の演奏は聴いたことがないが、あまり良い話は伝わってきていなかった。一方この仕事はオーストリア側から初めて正式に依頼された仕事で、この仕事の正否がその後のオーストリアでの私の評価に大いにかかわってくる。しかし宮下氏からは「まだ3ヶ月もある。毎日みっちり練習するので大丈夫」と言う答えが返ってくるだけだった。

演奏会の10日ほど前にウィーン入りした私の目に、すでに町中に貼られている演奏会のポスターが飛び込んできた。ウィーン・コンツェルトハウスの自主企画であるからポスターなども相当の枚数が用意される。一行は演奏会の前々日にウィーン入りし、いよいよ前日のホールリハーサルが行われた時、私は気を失いそうになった。小池氏の尺八はアマチュアレベルで、しかも楽譜は読めないと言うことがわかったのである。有名演奏家だからと言って宮下氏を信じて人選を任せきってしまい、一人一人の演奏を事前にチェックしなかった私の完全なミスである。

コンツェルトハウスのプロデューサーも顔面蒼白になった。彼がプッスールに電話し、この状態で演奏を行って良いかどうか問い合わせることになった。幸い作曲者は演奏に同意してくれ、翌日の演奏会は行われることとなった。しかし、翌日の演奏会は予想通り惨憺たる結果となった。尺八のパートは完全に五線譜に作曲されているが、小池氏は延々とインプロビゼーションを繰り返して、他のパートを妨害しただけだった。客席の最前列にはオーストリアの現代作曲家達に混ざって、武満徹ら何人かの日本側の音楽家も座っていた。「穴があったら入りたい」というのはこういう事を言うのだと、その時はっきり思った。幸い、楽屋を訪ねて苦情を言う人もいなかった。小池氏はオーストリア側のプロデューサーに「アイアムソーリー」と言った。この人が謝罪の言葉を口にすることはその後二度と無かった。

2012年1月26日木曜日

音楽祭の尻ぬぐいをする

企業メセナ協議会を退職後は再びフリーのマネージャーとして演奏会のプロデュースを行ったり、電通総研の依頼でヨーロッパのアートマネージメントの調査を行ったりすることになった。イギリス、アーツカウンシルオブ・グレートブリテンのハワード・ウェッバー部長は企業メセナ協議会在職中に知り合い、その後何度もオフィスを訪ねてイギリスでの芸術支援の資料を沢山もらった。バンベルク交響楽団事務局長のロルフ・ベック氏を頻繁に訪ねたのもこの頃だ。1990年代はドイツ統一の影響でドイツのオーケストラは多くが解散に追い込まれたりしたが、バンベルク交響楽団はベック氏のリーダーシップによって順調な発展を遂げていた。

こうした中1991年に日独楽友協会の演奏会に出演していた蜻蛉七月院という女性から「来年夏にヨーロッパとの交流を図るための音楽祭を行うので協力して欲しい」という要請を受ける。1992年8月に品川区の「きゅりあん」を1週間連続で借りて、日独楽友協会オーケストラの演奏会の他様々な演奏会を行いたい。出演者については杦山さんに交渉を任せたい、というものだった。蜻蛉女史は高級レストランを貸し切って頻繁にパーティーを行ったりして、私や他の音楽家達も何度も招かれた。帰りには何故か愛知県発行のタクシーチケットが参加者全員に手渡された。「愛知県が全面的に支援しています」と言うことだったが、愛知県の担当者が現れたことはなかった。

私は1991年9月にヘルシンキを訪れてヘルシンキ・ジュリアストリングスのゲーザ・シルヴァイ氏から「1992年8月にアジア演奏旅行を行うのだが、日本でも演奏できないか?」という問い合わせを受けていた。また、本来1991年12月のモーツアルト没後200周年に日本ツアーを行う予定であったアウクスブルク大聖堂少年合唱団も来日の意思を示していた。結局様々な交渉の末ヘルシンキ・ジュリアストリングスは自己負担でアジアツアーの途中3日間だけ来日すること、アウクスブルク大聖堂少年合唱団はコンツェルトハウス・ジャパンが招聘し、兵庫県の尼崎市や群馬県・栃木県の「日本ロマンチック街道」などで公演を行い、途中「きゅりあん」で1回だけの「ヨハネ受難曲」を、また日航機事故から7年目を迎えていた群馬県の上野村でモーツアルトの「レクイエム」を演奏することも決定した。
本来女声合唱ではなく少年合唱で演奏されるバッハやモーツアルトの宗教音楽を是非日本で演奏したいという私の無謀な意思もあって、さらにすでに決まっていたPMF音楽祭終了後、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人に演奏に参加してもらう話まで付け、航空運賃の一部をルフトハンザが負担してくれることになった。ツアー中のハンドリングはすべて私が行うことになった。

ところが蜻蛉七月院女史は1992年5月頃になって突然「スポンサーが降りてしまったので音楽祭は中止して欲しい」と言い出した。ヘルシンキの団体もアウクスブルクの団体もすでにツアー全体の予定を組んで航空券の予約も済んでいたし、東京以外での演奏会をキャンセルすればキャンセル料が発生する。今だったら東京での演奏会だけすっぽりキャンセルするだろうが、当時の私にはこれだけのプロジェクトを自分の責任で立ち上げておいて、キャンセルするだけの決断はできなかった。結局会場費以外のすべての経費を私が個人的に負担して、予定通り演奏会を決行することになりしかも宣伝費の不足や実際開催できるのかどうかの交渉がぎりぎりまでずれ込んだことから莫大な赤字が出ることになった。

アウクスブルク大聖堂少年合唱団はドイツでは五本の指に入る少年合唱団だが、日本の主催者は少年合唱団と児童合唱団の区別もついてないようだった。ほとんどの主催者が「ドイツと日本の民謡」のようなプログラムを選んだ上「歓迎行事」と称してあちこちの市役所などでさんざんノーギャラの演奏を要求された。「歓迎行事」のお陰で日光から上野村に向かう途中宇都宮市役所での歓迎行事に参加を要求された少年達は、上野村に着く頃にはぐったりしており、気分の悪くなる子も続出して指揮者のカムラー氏は私に食ってかかった。上野村では合唱団のギャラの他には、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人の入ったオーケストラに50万円しか予算が付けられないと言われた。これも私が持ち出すことになった。上野村に着くと「慰霊の園」には村出入りの葬祭業者が建てた豪華な野外ステージができあがっていた。葬祭業者には数百万円の経費が支払われたと言うことだった。

パンコンサーツ、メセナ協議会で働いた2年間の貯金がすべてなくなり、数百万円の借金だけが残ったのだった。ツアー中の合唱団の食費の支払いを巡って招聘もとのコンツェルトハウス・ジャパンと裁判になるというおまけまでついた。


2012年1月25日水曜日

オーケストラからの誘い

メセナ在職中は安月給だったが定時退局で時間はたっぷりあった。丁度この頃恩師、クルト・レーデルを指揮者に迎えてアマチュアの有志を集め「日独楽友協会管弦楽団」(はじめはトーキョードイチェフィルという名称で活動を始めるが、後に改称)の演奏を始めた。18歳の時に私が発起人となって「浦和交響楽団」を結成して以来だが、アマチュアオーケストラの運営というのはある意味プロよりむずかしい面がある。プロのオーケストラは通常自治体やスポンサーが付いて演奏収入を上回る赤字は補填してもらえる。奏者には通常チケットを売る義務はなく、オーディションを行ってプロとしての技術を持った音楽家を必要な人数雇っておけるし、人数が足りなければエキストラを頼む予算も出る。アマチュアオーケストラでは参加費を払って参加する演奏者が丁度良い人数必要だし、演奏者は自分でチケットも売らなければならない。会場費や印刷費がアマチュアだからと言って安くなることはほとんど無い。

しかし「レーデル先生の指揮で演奏したい」というアマチュア音楽家が沢山集まって、最初の演奏会の曲目はブルックナーの交響曲第5番に決まった。

企業メセナ協議会を去るしばらく前、1991年の夏に高崎で行われたオーケストラ関係のシンポジウムに参加した。壇上では新日本フィルハーモニー事務局長の松原千代繁氏が司会をして日本各地のオーケストラの実績が発表された。バブル絶頂期以来、日本のオーケストラのいくつかはスポンサーからの協賛金を人件費を含む経常費に充填する、かなり危ない運営を行っていた。協賛金というのは景気や企業の収益によって大きく変動する。バブルの頃にはメセナブームで常設のオーケストラは協賛金集めに事欠かなかったが、一部自治体関係のオーケストラなどはまだ協賛金を事業費に充てることすら条例などで認められておらず、動きが取れないところもあった。しかし、バブル期に協賛金をあてにして一気に給与を引き上げてしまった自主運営の団体のいくつかは、その後財政難に苦しむこととなる。

中盤に入って石川県音楽文化振興事業団の幹部が発足して間もないオーケストラアンサンブル金沢の成果について誇らしげに発表を始めた。私は少々違和感を感じながらその発表を聞いていた。というのも金沢在住の知人からオーケストラアンサンブル金沢の発足に至る経緯や、問題点について詳しく聞いていたからである。丁度同じ頃、埼玉県でも当時の畑やわら知事の気紛れからオーケストラ結成の話があり、結局あまりに非現実的なシミュレーションから立ち消えになったのであるが、石川県でも当初、人件費のシミュレーションをするのに「地方都市は物価が安いのだから給与は東京のオーケストラの70%ほどで良い」と言う計算をしたと言われている。なるほど生活上の出費は地方都市の方が少ないかも知れない。しかし東京圏をはじめ大都市圏の音楽家はオーケストラの正団員であればある程度レッスンなどの副収入もあるし、音大の講師を務める人も多い。他のオーケストラのエキストラもあればバブルの頃は高収入のレコーディングの仕事なども数多くあった。地方都市ではこうした副収入は限られている。みんなで分け合う「パイ」は小さいのだ。

もう一つは音楽好きの首長の肝いりで作られた楽団は未来永劫安泰なのだろうか?と言う点である。ちょうど埼玉県でもオーケストラ結成の話が立ち消えになったばかりである。オーケストラアンサンブル金沢は当時の石川県知事が指揮者の岩城宏之氏と意気投合して結成されたらしいが、上記の給与の話などからもわかるように、政治家に芸術経営はほとんどわからない。大阪センチュリー交響楽団への支援を打ち切った大阪市の橋下市長は最近大阪市音楽団の経営についても疑問の声を上げているが、もしこうした「音楽嫌い」の首長と政権が交代した場合、楽団が存続できるという補償はあるのだろうか?

石川県幹部の発言後、私は「給与面等でも不安がある地方の新しい団体を運営するにあたり、首長の交代などで団体が解散になったり、雇用条件が悪化することが無いように、若い音楽家の将来を財団はきちんと保証できるか?」という質問をした。会場がややざわめいて、幹部は「大丈夫だと思います・・・」というような回答をして壇上がやや鼻白んだ。司会の松原氏がフォローして下さったので、その場はあまり紛糾せずに先に進んだが、休憩時間になると私は興奮した若い音楽家達に囲まれてしまった。

「杦山さん、よくぞ言ってくれました!」「そういう考え方をする人を待っていたのですよ!」主に日本音楽家ユニオンのオーケストラアンサンブル金沢支部のメンバーだったがその他のオーケストラの人もいた。懇親会の席でさらにいろいろな話をうかがうことができた。

8月末で企業メセナ協議会に辞表を出し、9月はじめの日独楽友協会オーケストラの演奏会があった。演奏会にはオーケストラアンサンブル金沢のメンバーも参加していただき、その後レーデル氏はオーケストラアンサンブル金沢に客演指揮者として招かれた。終わるとすぐに、私はヨーロッパに旅立った。ハノーファーで演奏を行ったり、ハンブルクのマーク・アルブレヒトを訪ねたり、結局ヘルシンキまで行って沢山の友人や、音楽家達と出会った。

日本に戻ってまもなく、私は突然オーケストラアンサンブル金沢のチェリスト、ルードヴィッヒ・カンタ氏の訪問を受けた。カンタ氏と面識はなかったが「金沢ではまもなく事務局長が空席になる。オーケストラのメンバーの中に是非杦山さんに来て欲しいと言う意見があるのですが、受けていただけますか?」とわざわざ東京まで出向いて私に声を掛けてくれたのだった。私はもちろん喜んでお受けしますと言ったが、これはユニオンのメンバーが私を推薦するという意味であって、県がそれを承諾したわけではない。それどころかシンポジウムの席で誇らしげに発表をしていたところ出鼻をくじかれた財団の幹部は私のことを苦々しく思っていただろう。結局石川県はユニオンの推薦を受けた私を採用することはなかった。一方的にユニオンの主張を優先するような運営をすると思ったのだろうか?オーケストラにとっては経営の改善は経営側にとっても、働く側にとっても双方の利益になるはずだったのだが。

しかしオーケストラアンサンブル金沢ではその後団員の待遇が飛躍的に改善され、現在では大都市圏のオーケストラよりも恵まれた条件で活動している。私の発言がそのきっかけになったことは確信している。

これが一番はじめだったが、その後何度もオーケストラの運営の仕事につく機会が訪れる。しかしそれが実現することはなかった。

2012年1月24日火曜日

序、アートマネージメントで働く

私が2年間の留学を終えて日本に帰国したのは1987年の8月だった。帰国しても仕事の当てはなかったが偶然知り合ったヴァイオリン店でしばらくアルバイトをさせてもらえることになった。実は東ドイツのオーケストラで働かないかという話はあったのだが、当時の東ドイツのオーケストラの月給は700から900東マルク、現地で暮らして行くには充分だが何か果物か野菜でも食べたくなって西ベルリンに買い物に行けば(現地の人はそれすらできなかったが)すぐになくなってしまう金額だ。日本に里帰りしようと思えば何年も貯金するか、親に飛行機代を出してもらうようなことになる。

翌年の秋から数ヶ月京都でコンサートマネージメントの手伝いをすることになり、1989年の春に東京に戻ってからもフリーでコンサートマネージメントの手伝い(会場の裏方や、パンフレットやプログラムの印刷など)を行っていた。どこに行っても武蔵野音楽大学の同級生や先輩が私の「評判」を知っているオーケストラのオーディションなど受けたくなかった。通常オーケストラに入るにはいろいろなオーケストラのエキストラを務めて、日本で好まれる演奏法をよく知っておかなくてはならない。武蔵野音大で「悪い評判」を立てられた私をエキストラに呼んでくれるオーケストラはなかった。また、私は奏法も完全にドイツ式で「ドイツ管」と呼ばれる柔らかで弦楽器や木管楽器の音と良く解け合う楽器を使っている。ヤマハやバックなどの通常アメリカ管と呼ばれる硬質で金属的な音のするトロンボーンとは一緒に吹きたくなかったことも事実だ。

東京に戻ってから1年ほどの間に個人的にコンサートのプロデュースをし、かなり無理もあったが個人のリスクで海外から招いた音楽家の室内楽のコンサートのシリーズを行った。私が呼びかけて結成されたグループもある。バロックヴァイオリンの寺神戸亮、ガンバの上村かおり、チェンバロのクリストフ・ルセを「東京バロックトリオ」として売り出したのは私だ。クリストフ・ルセはこれが初来日となった。ウィーン室内管弦楽団のコンサートマスター、ルードヴィッヒ・ミュラーを中心に結成させた弦楽四重奏団はその後「アルクスアンサンブル」を経て現在は「アーロンクァルテット」として新ウィーン楽派の作品を中心とするレパートリーで押しも押されもしないウィーンの実力派だ。こうしたメンバーと共に主に長野や群馬の小さな主催者が開いてくれる演奏会の会場を回った。1回の演奏のギャラが15万とか、20万とか、そのくらいだったから飛行機代と僅かなギャラを払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。

1989年の秋、ほぼ同時に中規模なコンサートマネージメント2社から求人の広告があり、面接を受けたところ両方に受かってしまった。片方はコンツェルトハウス・ジャパンという会社で当時はまだ年金や保険などがきちんとしていなかったのが不安だったのでもう一つのパンコンサーツと言う会社に入社する。この会社はホリプロダクションの子会社でクラシックのマネージメントの他音楽関係の書籍の出版などを行っていた。しかし実はここに罠が潜んでいた。親会社が大きいので年金や保険、福利厚生などもしっかりしていたのだが、丁度LPからCDに切り替わる頃に大量のLPレコードと組み合わせて出版した「ヘリテージオブミュージック」というクラシック大全集が大量に売れ残り、倉庫代だけでも膨大な赤字が出ていたのだ。

入社から3ヶ月は、海外からの演奏家を連れて1日も休みなく日本中を駆け回り、その間にクルト・レーデル教授をはじめ新たに知り合った音楽家も多い。クラシック音楽のマネージメントと、演奏会の企画はうまく行っているように見えていた。

ところが入社から1年を過ぎてまもなく、堀威夫氏ら親会社のホリプロ幹部はかさんでいる出版部門での赤字を理由にパンコンサーツを閉鎖することを決定した。もちろん、子会社であるパンコンサーツの社員である私たちには決定が知らされただけだった。世間ではモーツアルト没後200年のイベントが盛んに開かれバブル末期のクラシックブームの中、1991年1月にパンコンサーツは閉鎖される。入社後まだ1年半も経っていなかったし、出版部門での赤字は私には何の責任もないので抗議したら「AV製作本部に異動するならホリプロでそのまま雇用する」とのことだった。はっきり言って私はAVというのはアダルトビデオだと思っていたので固辞して退社を決めた。

パンコンサーツを退社してすぐに当時話題となっていた企業メセナ協議会に根本長兵衛専務理事を訪ねた。メセナは同様にバブル末期にしきりと話題になっていたし、根本氏は朝日新聞時代の父の後輩だったので父に電話一本入れてもらった。実は私はメセナ協議会自体で働きたいのではなくて、メセナ協議会の会員企業で直接芸術支援を行っているところに入りたかったのだが、事務局で人が足りないとかで有楽町マリオンの企業メセナ協議会で働くことになった。

通勤便利で見晴らしの良いオフィスだったが給料は一気に半分になってしまって苦しかった。ホリプロの子会社は残業代は一切付かないのだが、はじめから「勤務手当」だとかいう残業と休日出勤の補償みたいなものが出ていて、その上わずかだが出張旅費が出て、それで外食をすると休みがほとんど無い分だけ、食費はほとんどかからなかった。メセナ協議会は17時以降は割り増しの残業代が出る規定になっていたが、とても残業する気にはならなかった。それは仕事の内容が考えているような物とまったく違っていたからだ。

本来「芸術に詳しい人」を探していると言うことだったので、会員企業が効率的にメセナ活動ができるようにコンサルティングなどができるのかと思っていたが、実際にはメセナ協議会自体が何をしたらよいか、手探りで進めているような状況だった。それも会員企業がお互いにお互いの顔色を見ながら、なるべく縄張りを荒らさないように実績作りをしていた。事務局員にはほとんど発言権がなく「メセナ」という季刊誌を編集したり外国から招いてきたアートマネージメント関係の講師のシンポジウムを主催したりというものであった。実際には業務のほとんどが会員企業宛の会報やお知らせ、季刊誌の発送などで、これらをアウトソーシングせず、すべてを事務局員が総出で、長机を並べて、プリントを三つ折りにし、封筒に詰め、封筒を糊で貼り、切手を貼り郵便局に運んでいた。しばらくして流石に見かねて「料金別納郵便というのにするといちいち切手を貼らないで済みますよ」と言ったら上司の事務局次長はキツネにつままれたような顔をしていた。それでとりあえず、切手だけは貼らないで私が東京中央郵便局まで持っていって別納のはんこを押すことになった。封筒を全部使い切ってしまうまで「料金別納印」の印刷された封筒は作れなかった。

2月に入局した企業メセナ協議会事務局だが、8月に自主退職することにした。いくつか興味深いセミナーも聴講できたし、慶応大学で始まったアートマネージメント講座も聴講させていただけることになったが、ともかく作業のほとんどは封筒貼りばかりで、何かデータの収集とか、メセナの実例とかを研究できるわけでもなければ自分の意見を発表できる場もなかった。
しかしそれにもまして決定的だったのは、8月末の給料日に何気なくデスクの上に置きっぱなしにされていた事務局次長の給与明細だった。この人は永井道雄氏の紹介で港ユネスコから天下りしてきた人だが、フランス語ができると言うだけで芸術に何の知識も造詣もあるわけではない。それなら私だってドイツ語ができるし、少なくとも音楽の専門の勉強を6年間はしてきているわけだし、ヨーロッパでのアートマネージメントの実情にも詳しいわけだ。なんと、天下りで管理職に入ったと言うだけでこの人は一日中まったく同じ袋貼りの仕事をして、しかも「料金別納郵便」も知らないで何千枚という発送物にいちいち切手を貼って発送していたのに私の3倍強の、つまり手取り50万近い月給をもらっているのだった。その事実を知った翌日。私は辞表を書いて事務局を後にした。

(続く)

2012年1月22日日曜日

京都市交響楽団でのできごとについて

2009年1月、京都市交響楽団音楽主幹の新井浄氏から「是非京都市交響楽団に来て欲しい」という要請を受けた私は京都市市民文化室長平竹耕三氏らの面接を受け、同年4月京都市交響楽団に「副音楽主幹」として赴任しました。900億円を超える負債を抱え、財政再建団体一歩手前の京都市は京都市交響楽団の経営改善という課題を抱えながらバランスシートすら作成されておらず、芸術経営の専門家を欠いた運営が続く中、常任指揮者広上淳一とマネージャー荒井雄司の横暴な要求が続いていました。そんな中、何とか経営を改善しようと京響に乗り込んだ私を待っていたのは同僚達の無視、デスクから資料が持ち去られたりコントラバスをぶつけられるなどの露骨な嫌がらせでした。広上と荒井は専門的知識を持った人間が事務局に表れ、自分たちのやりたい放題ができなくなることを恐れ、京都市幹部に圧力をかけ続けました。

一度は「是非京都市交響楽団に来て欲しい」と頼んでおきながら一転して態度を翻した京都市は、わずか2ヶ月半後の同年6月、私に自主退職するように求め「自主退職しないなら解雇する。経歴に傷が付く。おとなしく自主退職するなら次の職場を紹介する」などと退職を強要しました。

日本のクラシック音楽界で私にふりかかった、様々な災厄について徐々にブログに書いていこうと思います。関係者については内部の人間なら誰でもわかることなので、特に必要のない場合は匿名とせず、すべて実名で記載します。

2012年1月20日金曜日

ケロイド


自分が2年生になって、管楽器の新歓コンパが行われるその日、学生部の古庄先生と仲地先生宛に「新入生に対する飲酒の強制と暴力行為を慎むようにさせてください。もし目に余る行為があればマスコミにリークすることも辞しません」という内容の要望書を出した。仲地先生は温厚な方だが要望書を読みながら顔色が変わった。新歓コンパに先立って古庄先生から注意があった。白けた空気が漂い、私を睨み付ける同級生もいた(その後数年間、管楽器の新歓コンパは中止されたらしい)。「何でお前がいるんだよ!」などと言う奴も居たが、私は参加費を払って自分は一滴も飲まず、ただその場にいた。多少の強制はあったようだが、前年度のようなことはなかった。1年生の練習室にポカリスエットなどを大量に置いておいた。

1学期はその他にこれといったトラブルもなく進み、私はブラスバンドからも外されたのでますます入間に行く日は少なくなった。そして予定通りオーケストラの合宿がやってきた。私はもうどうなっても良いという気もあったが、先輩達に無理矢理抑えつけられてやられるより少しはましな感じもあった。興味本位で同調している一年生もいた。

結局「儀式」は合宿最後の晩に同級生達の手によって行われた。

いずれにしろ、性器に劇薬を塗るというのは殆どレイプと変わらない。「キンカン」は虫さされの薬だが絶対に粘膜に使用しないように注意書きがある。主成分であるアンモニアが粘膜を壊死させる。はじめ酷い火傷になるが数日でかさぶた状に、かさぶたがはがれた後は一生消えないケロイドになった。裁判のことは頭をよぎったが、今ほど法律の知識があるわけでもないし、弁護士も知らなかったから相談もできなかった。

この手の「儀式」は社会心理学的には一種の擬似去勢行為である。被害者は「去勢」されることによって集団の一員となると同時に絶対の服従を強制されるのだ。私は吐き気と胃痛に苛まれるようになった。

2学期になってほとんど大学に行かなくなった私は結局、10月に退学届けを提出する。一応形だけは3月末まで学生と言うことだった。その後かなり長い間、私は武蔵野音楽大学時代のイヤな体験を夢に見るようになった。期待に胸をふくらませての入学、すべてが崩れ落ちる現実。学園祭での演奏やブラスバンドから外されたことなど。実際にあったことも、なかったことも。

私の退学後しばらくして、徐々に「合宿に行かない」という新入生がでて「困っている」という話を聞くようになった。しかし合宿とキンカンを拒否したのは、一部の新入生にとどまっているようだった。私より遥かに後の代の学生から「やられた」という話を聞くことも多く、結局の所まだ続いているのか、やめたのならいつを以て最終的にやめたのか、学校側が事実を確認しているのかどうかも、私のように心の傷を負って大学をやめざるを得なかった学生がどれほどいるのかもわからない。

先日、福井直敬学長宛に書留郵便を送ったが、何の返事もない。

極めて遺憾なことに、私はその後「武蔵野音楽大学でいろいろ問題を起こした、評判の悪い」人間になる。「問題を起こした、和を乱した、評判が悪い」という台詞だけが一人歩きして、他の音大の学生にまで伝わった。先輩諸氏からも疎まれるようになった。そういう状態がその後何年も続いて、私が留学から戻った後も変わることはなかった。「問題」というのが何かを聞こうとする人もいなかった。

十数年経って、武蔵野音楽大学の入学志望者が減っていることを耳にするようになった。この愚かな「伝統」を学校側が放置したことと、無関係ではないような気がする。

武蔵野音楽大学での新入生へのヘイジング(新入生いじめ)


結局、合宿はパスした。教官からも「残念だ」という一言を添えた暑中見舞いが来ていた。

しかし、夏が来る前に大きな変化が起こる。 ドレスデン・シュターツカペレが来日し、私は楽屋に日参していろいろな人と知り合ったが、最も重要なのはアロイス・バンブーラ教授と知り合ったことだ。

バンブーラ教授は来日公演のプログラムの内「魔弾の射手」しか乗っていなかったので、来日中3回もレッスンを受けることができた。 それ以外にも東京のあちこちを案内して差し上げた。もっとも教授はもう何回も日本にきていたのだが。

私は武蔵野音大で起こることにもはや興味がなくなってしまった。

あまりにレベルが違うのである。バンブーラ教授はレッスン料を受け取らず、毎回2時間近くレッスンしてくださった。これは、バンブーラ教授に限ったことではない。私が楽屋を訪ねて教えを請うた演奏家たちは、時間が有ればレッスンをしてくれたが、レッスン料を受け取った人はいなかった。その中にはチェコフィルのミロスラフ・ヘイダ氏のような偉大な教師が何人もいる。

そうこうするうちにトロンボーン会の合宿は「無事」終了する。私が行かなかったのは彼らすべてにとって本当に幸いだ。もし行っていたら彼らは法廷に立たなくてはならなかったろう。それも最悪の場合刑事被告人として(刑法204条=傷害罪、同206条=傷害現場助勢罪)。もちろん民事上の賠償責任は免れないし、監督責任者は職を失うことになっただろう。 私は私以前に誰も「告訴」を考えなかったことが理解できない。また、暴行を行う側も誰かが告訴したらどうしようと考えなかったのは恐ろしく無思慮である。 新入生を集団で抑えつけて、ズボンと下着を脱がせ、粘膜に塗れば酷い火傷、場合によっては壊死を引き起こすアンモニアを含んだ薬液を性器に塗布する行為は暴行傷害事件であり、告訴は被害者でなくてもできるのだ。しかも共謀共同正犯である。

秋口から大学に行くこと自体が面倒になってくる。行けば「お前はキンカンを塗られなかった」という羨望と怨嗟(これはまったくの逆恨みで、塗られたくないのなら集団で拒否すれば済んだのである)の声が待っている。キンカンを拒否したことがまるで犯罪者のようだ。

和声やソルフェージュや音楽史など、いくつかの必須科目だけ出席して昼頃には帰宅する日が続く。学園祭のブラスバンドは同級生達が勝手に降り番にしてくれた。

大学1年の冬休み、私は3ヶ月近くヨーロッパに渡る。初めての海外はフランクフルトまで片道約30時間かけて、カラチ乗り換えのパキスタン航空だった。しかもフランクフルトについてすぐにウィーン行きの列車に飛び乗って更に10時間近い旅となった。当時ウィーンにいた姉夫婦の家に2泊だけしすぐにドレスデンに向かった。いくつかの試験をすっぽかしてしまったので単位が取れなくなったが、もうどうでも良かった。

ドイツ語は初めての授業の時に講師が「君は僕より発音が良いねえ」と言うので、これはもう来なくていいと言うことだろうと思ってそれ以降行かなかったらやはり単位はもらえなかった。その代わり、ドイツで約1ヶ月間、ほぼ一言も日本語を話す機会がなかった私は、ウィーンに戻った時にはもうかなりドイツ語ができるようになっていた。

履修届を出す期限ぎりぎり、ゴールデンウィーク直前に日本に戻った私は武蔵野音楽大学に行き続けることを深刻に悩むようになる。親には高額の授業料を出してもらっている。できることなら日本の大学卒業資格は取っておきたかった。一方で、同級生と顔を合わせるのも毎日苦痛になってきた。ましてや、来年は江古田に行かなくてはならないと思うと胃が痛くなることばかりだった。江古田では卒業生の間にまで「武蔵野音楽大学の素晴らしい伝統であるキンカンを拒否し、集団の和を乱した酷い奴」という評判が広まっていた。あったこともない卒業生にいきなり難癖を付けられるかも知れない。こちらは相手の顔を知らないので、欠礼したりしたらさらに酷いことになる。

また、上級生達のファッションやしゃべり方も私を憂鬱にした。夏は殆どがアロハシャツ、冬は黒や茶色の革ジャンである。要するにチンピラと変わらない。私はかなりすり減ったが、まだ決定的に退学を考えていたわけではない。その決断を付けることになったのは、夏のオーケストラの合宿だ。これは1、2年生だけの合宿なので上級生は参加しない。しかし「杦山はキンカンがまだなので合宿で塗る」という話は私の耳にも入っていた。

(続く)

2012年1月19日木曜日

武蔵野音楽大学の新入生歓迎コンパ


私は酒が嫌いな方ではない。特に若い頃は馬鹿みたいに沢山飲んだし、飲めた。ビアホールに行くと大ジョッキを5,6杯飲んでやっと飲んだような気になった。沢山飲めるのが偉いような気がしていたので、特に大勢だと気が大きくなってますます飲んだものである。

だから、飲み会は嫌いじゃないが、まずは管楽器の新入生全員を対象とした新歓コンパでの上級生達の行為、それを黙ってみている教員達に激しい嫌悪感を感じることになった。
私は猥談も嫌いじゃないが、女性や子供の前で猥談をする奴は軽蔑する。酒を飲んで騒ぐのも良いが、歓迎される側が激しい嫌悪感を感じながら同席を強要されるような飲み会は最悪だ。 私が「特性カクテル」の一気飲みを拒んだのを見ていた上級生の何人かが向かってきた。ベルトを引き抜いてムチにして、口から泡を吹きながらかかってきた3年生は私に突き飛ばされて転倒した。会場は色めきだったので、まずいと思ったのか何人かの4年生が私を会場の外に誘導した。帰宅を促されたのだが私は「事態を最後まで見届ける」と言ってその場にとどまる。

更に一悶着起きたのは帰りの電車の中である。上級生達は車内でも乱痴気騒ぎを続けたのだ。他の乗客の乗り合わせた車内で手拍子、猥褻な歌詞の放歌が続く。先ほどの騒ぎが収まったばかりだったのでしばらくは抑えていたのだが、あまりの非常識に私は再びキレる。
周囲の乗客の視線をよそに、注意した私を取り囲んで怒鳴る、小突き回す上級生達、今度は同級生が止めに入って私は途中駅で降ろされる。捨てぜりふで見送る上級生達。
翌日、担任の教官に電話する。上級生達の行為を非難するためだが、逆に「上級生を注意するとは何事か!」と怒られる。 

まもなく、今度はトロンボーン科の新歓コンパが行われる。何か「芸」をやれと言うのでバッハの無伴奏ソナタをヴィオラで弾いてやろうと練習しておいたが、どうもそういう物じゃあないらしいことを悟る。

トロンボーン科の新歓コンパでは、某オーケストラ所属の同郷の大先輩と担任が私の非礼を上級生達にさっさと謝ってしまい、私はもじもじしているうちに手打ちとなってしまった。宴会芸は例によって卑猥な替え歌ばかりだったが(こういう替え歌はそういう好き者ばっかり集まっている肩の凝らない席で上手に歌うと結構面白いんだけどねえ)、私は座布団を5枚も重ねた上に正座してビールを3本続けてラッパ飲みしたらそれですんだ。3本目には教官からストップが入った。だらしない奴らめ。

数日するとまた問題が持ち上がった。私が「トロンボーン科の合宿に行かない」と言い出したからだ。
事のはじめは同級生のIが昼飯を食いながら「あれはキンカン合宿だからなあ」と言い出したことに始まる。

「キンカン合宿って何だ?」問いつめる私。
「だから、塗るのさ」
「どこに?」
「・・・・」

何でもキンカン楽器だからとおもしろ半分に下級生をつかまえて塗ったのがはじまりらしい。

何たる愚劣!何たる低能!

私は断固行かない!と同級生に表明したことからそれが上級生達にも伝わり「おまえ達が何とかしろ」と命令された同級生が連日放課後の説得に当たることになる。

曰わく、「あれは武蔵野音楽大学トロンボーン会の伝統であり、伝統は守らなくてはならない」。「そういう理由で合宿に参加しないと表明した新入生はおまえが初めてである」。「先輩もみんなやられたのだからお前もやられろ」。云々。

「上にやられたことを下にやり返す」徳川時代に醸成された日本人のもっとも卑屈なメンタリティだ。松本清張氏によると江戸時代の牢内で行われた様々な虐待が、新政府になってから陸軍の内務班に取り入れられたらしい。

先日「恩送り」という言葉を知ったが、これでは「仇送り」だ。

それは今まで毎年、新入生は腰抜けばかりでようござんした。俺はやられたことは、やった奴にやり返す。 
同級生の説得が失敗すると、今度は上級生による呼び出しが始まる。

そういう下らない理由で、江古田の地下室に出向かなくてはならないのはかなりのストレスである。そもそも、どこの世界に高い金を払って大学に入ってこれから勉強したり練習したりしなくてはならないのにチンコにキンカン塗られなくてはならない法があるだろうか?

「毎日お前の所為で何時間も話し合いだ」って「そんなこと頼んでねえっつうの!そんな下らないことで何時間も雁首揃えてる暇があったら練習しろっこのぼけどもがあ。だからT音大やK音大に抜かれるんだぁ!」 

とは言えないので、「すばらしい伝統」についてのありがたいお話を先輩諸氏から何時間も伺う有り難い毎日となる。

(続く)

日本の音大の知性と品性


私は本来音大に行くつもりはなく、いくつかの大学の西洋史学専攻を受けたがなぜか皆落ちてしまい、2浪することになってはじめて音大に行くことに決めた。 レッスンを受けていた先生に相談して受験するのは武蔵野音楽大学トロンボーン科に決める。

進学先を音大に決めたとき、設備の整った新しい校舎で学べることに胸をふくらました。私は楽器を始めたのは早かったが、音大受験にはブランクがあったし、ピアノもずいぶんやっていなかったし、演奏家になるのは難しいだろうと思っていたが、それならば音楽や音楽学の研究に専念しようと思っていた。ラテン語やギリシャ語、さまざまな音楽理論を身につけようと思っていたが、その気持ちは入学後すぐに全く裏切られることになった。

まず、ラテン語やギリシャ語は履修できないことがわかった。
音楽理論はほとんどが音大入学前には知識として知っていることだった。
演奏技術もほとんどの学生が私よりずっと未熟だった。

今から考えれば、ブラスバンド上がりで音大に行く人の多くが高校2,3年生ぐらいではじめて先生についてレッスンを受けるので、中学1年から先生についていた私とはかなり差があっても無理はない。

音楽や美術や文学や歴史、哲学などの話をする相手はいなかった。仕方がないので気に入った教官の部屋に入り浸ったが、相手も授業の準備があるから迷惑だし、その教官が毎日研究室にいる訳でもない。

さらにショックだったのは学生の知性である。
新歓コンパは新入生いじめとセクハラだけだった。舞台上に作った「お立ち台」に一人ずつ上がらせ、学籍番号と名前を絶叫させてから残飯やわさび、ソースなどをビールと日本酒に混ぜた「特製カクテルを」一気飲みさせるやりかたは、どのような経緯を経て陸軍内務班から私立の音大に伝わったのだろうか? (英国海軍から帝国海軍を経て伝わったという説もある)

それとも人間落ちるところまで落ちるとやることは同じなのだろうか?

私はこの儀式を拒否して壇上で上級生ともみ合いになる。口からヨダレをたらして殴りかかってきた上級生は地獄の鬼の群れに見えた。(続く)