2012年2月16日木曜日

京都市交響楽団(5)         コントラバスを持って走るアルバイト

初日の練習は21時に終わって練習場の鍵を閉めて外に出ると22時過ぎになる。広上氏は終了後も私と何も言葉を交わさずに控え室に入り、タクシーに乗り込んで練習場を後にした。事務局員が車寄せに並んで深々と最敬礼し、私もそれに従った。仕事の後はほぼ連日、音楽主幹の新井氏と飲みに行っていた。

翌日も練習は15時30分スタートだったがこちらは9時半には出勤する。仕事が始まって9日、予定表ではこの間に公休日が4日有ったが、事務局のシフトが決まらないので実際は休みは1日もなく、事務局全員が毎日出勤していた。新井氏は「全員が集まって話し合いがもてないので、シフトが決められない」と言っていたが、はじめからシフトの決め方に異論があって話を持ち出すのが億劫な様子だった。話し合っているよりも音楽主幹、副音楽主幹の二人が毎日出勤していれば何とかなるという様子だった。練習場での仕事には徐々に慣れ、面接の時とは違って女性陣の中にもこちらから「おはようございます」と挨拶をすれば、顔を見て挨拶を返してくれる人も現れた。京都市交響楽団はこの年から京都市音楽芸術文化振興財団に移管されたため、事務局機能の一部は京都コンサートホール内に移され、業務や会議が2カ所で行われるため、仕事の能率はすこぶる悪かった。しかし、桜が満開の鴨川の土手をコンサートホールまで往復すると、事務局内の雰囲気を吹き飛ばしてくれるくらい絶景で、気が紛れた。

仕事の方はファイルが持ち去られたのではかどらず、私はライブラリや楽器など備品をリストと照らし合わせたりして練習の開始を待った。2010年度の定期演奏会のプログラムなどがほとんど決まっておらず、新年度を迎えてやらなければならないことが沢山あるはずだったが、事務局全員で集まって話し合いがもたれることもないまま、1週間以上が過ぎていた。何より広上氏の意向がわからなければ翌年の予定など立てられるはずもない。

信じられないことに雇用契約書がまだ交わされておらず、正式な雇用の条件もまだ伝えられていなかった。仕事が始まって10日あまりになるのに健康保険証もまだ渡されていなかった。ホリプロの子会社はもちろん、ブラック経営で話題になっている高崎の堀越学園ですら健康保険証は赴任したその日に用意されていた。さすがに事務に電話をして早く健康保険証を用意し、服務規程や自分の等級が何級何号になるのかなどを教えてくれる様に要求する(健康保険証は結局ゴールデンウィーク明けまで渡されず、子供が風邪をひいて受診の際に無保険扱いになったり面倒なことが起きる)。

出町ふたばの豆餅は受けが良くなかった様だが、私も武蔵野音大で鍛えられただけ有ってそのくらいではへこたれない。翌日はクレームデラクレームのシュークリームを買って指揮者控え室に届けた。この日は一言二言会話することができ、広上氏はどうやらシュークリームは気に入ってくれた様だった。翌日のスプリングコンサートの際に新井氏から「大阪公演の後に広上氏と飲みに行くことになったので直接話ができる」と伝えられる。

スプリングコンサートは私がマネージャーとして立ち会った京都市交響楽団の初めての公演となる。しかし、音楽主幹の新井氏をはじめ事務局のほとんど全員がフロントに配置されたため、舞台裏の進行がどうなっているのかはほとんどわからなかった。しかもフロントに配置された平竹耕三ゼネラルマネージャーをはじめとするマネージャー、事務局長達の仕事とは主に来賓に挨拶することであり、一般客も多く来場する通路に並んで副市長など京都市幹部、スポンサーなどには深々と頭を下げ、一々紹介や挨拶が続いた。事務局員や私は入場者に定期演奏会の案内を手渡す様に指示された。それ自体は必要なことなのだろうけど、私はむしろ舞台裏の進行がどうなっているのかが気になった。しかし、汗ばむ様な陽気で桜も満開の中、スプリングコンサート自体は無事終了した。

ところで、京都市交響楽団の練習場は烏丸鞍馬口から鞍馬口通りを入った鴨川沿いにある。京都市交響楽団のホームグラウンド、京都コンサートホールまでは歩いても行ける距離だがホールには楽器庫も練習室もなく、また同じ財団が管理しているのにホールリハーサルはごく稀である。楽器楽譜は練習の度にすべて移動させなくてはならない。翌々日の大阪公演の練習のため終演後大型楽器や打楽器をトラックに積み込み、練習場に移動させる。その際に小さな事件が起きる。アルバイトの学生達がコントラバスを持って走っているのに遭遇したのだ。京都コンサートホールの搬出口は舞台下手側(客席から見て左側)にある。スプリングコンサートでコントラバスは右側配置だったので打楽器の搬出と導線が重ならない様に、コントラバスは舞台上手から運び出し、舞台裏のホワイエを通過して搬出口に運ばれていた。ステージマネージャーの日高氏の他にアルバイトが2、3名入っているが、確かに搬出口までの距離が長いので、7本のコントラバスを運び出すのに時間がかかる。しかしコントラバスを持って舞台裏を走るというのは私から見ると常識外れだ。もし何かにぶつけたり、転んだりして楽器を破損すれば翌日の練習や次の公演にも影響が出る。何本目かのコントラバスを持って走っているアルバイトに「楽器を持って走らないでくれるかな」と声をかけるが、何の返事も反応もない。仕方がないので搬入口で積み込みをしている日高氏の所に行く。「アルバイトに楽器を持って走らない様に言ってくれますか」私の言葉に対して日高氏は不愉快そうに言い返した。「うちはずっとこうやっていますから」。私は耳を疑った。

(続く)

2012年2月6日月曜日

京都市交響楽団(4)         ファイルが持ち去られる

広上氏は練習場に入ったが、練習はなかなか始まらなかった。新旧事務局長はじめ交替する役員が1人3分ほど挨拶したからだ。オーケストラの練習時間がいかに貴重な物か知っている私はかなりやきもきした。ご存じの方もあると思うが、マーラーの時代のウィーンと違ってプロのオーケストラの練習時間という物は、短縮することはあっても伸びることはない。予定の時間を3分も過ぎよう物なら団員は立ち上がって帰ってしまう。サービス残業などもっての他だ。勤務時間無制限で残業も一切付かないマネージャーとはまったく違うのである。私も紹介されたが「辞令交付式」の際にも挨拶していたので(その時来ていない団員も多かったが)自己紹介は名を名乗って「何か問題点があったらご相談下さい」と言っただけで、挨拶は10秒で終えた。

離任する吉田事務局長は通常の挨拶だったが、新任の並川哲男事務局長は挨拶が終わると「これは強制ではないのですが」と前置きしてから「今年度から団員の皆さんに、公演終演後、お客様のお見送りをお願いしたい」と告げた。大阪のあるオーケストラで、公演終演後団員がホールの入口に並んでお見送りをして好評だというのである。

指揮者の広上氏が会場入りして待っているのに、練習は10分以上遅れて始まった。この日から京都コンサートホールでのスプリングコンサートと、大阪シンフォニーホールでの演奏会、2公演分の練習が入っていたのでスケジュールはタイトだった。しかも京都と大阪でダブっているプログラムは「ラプソディ・イン・ブルー」だけ。それも京都は小曽根真氏、大阪は山下洋輔氏がソリストだった。京都ではジュニアオーケストラのメンバーとの共演などが入り、大阪公演はメインが「悲愴」だった。

練習開始後事務所に戻った私は、初めて並川氏に意見した。「並川さん、せっかくのお話しに水を差すようで申し訳ないのですが、オーケストラが公演終演後にお見送りをするかどうかと言うのは、オーケストラの品格に関する重要な問題です。市の決定だとしても年度が始まったばかり、事務局内で話し合いもなしに、いきなり発表するというのはいかがな物ですか?」。これに対して並川氏の話は「これは強制ではない。やりたくない人はやらなくても良いのだから、いちいち相談する必要はない」というものだった。

私が反対な理由は概ね以下のようなことである。
まず、オーケストラは公演終演後、楽器を片付けなくてはならない。片付けにかかる時間は楽器にもよるが、楽器係が搬出してくれる打楽器や、大型楽器、ぬぐってケースに入れれば終わりな物もあれば、分解して内部の水分を取ってケースに収めなくてはならない物もある。高価な楽器を楽屋に置きっぱなしにして出てくるのは心配だ。オーケストラが立ち上がれば聴衆は出口に向かうので楽屋から出口までの距離にもよるが通常楽器を片付けて出口まで走ってきても、かなりの数の聴衆はすでにホールを出てしまっている。楽器に事故が起こったりするリスクを冒してまでホール出入り口に走るのはどうか?

次にシーズンと照明、ホール内の温度などにもよるが聴衆が快適に音楽を聴ける温度を優先しているコンサートホールの舞台はとても暑い。ほとんどの人が汗をかいているし、演奏が終わったら演奏者は本来いち早く着替えたいのである。

そして、これについては人それぞれの意見があろうが、私の反対する最大の理由はオーケストラの団員が終演後客席に向かって立礼するのは、伝統的スタイルとして最大礼であり、拍手が終わって舞台を後にする時に各自が一礼するのは良いとしても、団体客の見送りをする場末の温泉旅館の仲居よろしくホールの玄関に並んで見送りをすると言うのはオーケストラの品格にかかわる問題なのである。N響も読響もやらないし、もしベルリンフィルやウィーンフィルでそんな提案をする事務局長がいれば、仮に「強制ではありませんが」と言ったところで恐らく即時解任されるだろう(ちなみにヨーロッパのオーケストラでそんな事をするところはない)。京都市交響楽団は日本のオーケストラの中でも非常に伝統と格式のある、格調高いオーケストラである。私はこのような「悪しき習慣」を受け入れて欲しくなかったし、それは京響のためにならないと真剣に思ったのだった。

オーケストラの団員は演奏に全身全霊を傾けている。終演後、舞台裏に退出する時はぐったりしているし、リラックスしたいのだ。ホールの玄関まで狭い通路を走っていって、聴衆にスマイルを振りまく余裕など本来ないし、あるべき物でもない。第一知り合いと話し込んだりすれば聴衆の退出が終了するのが遅れる。下手をすると退館時間が押してしまうことすらあり得る。私に言わせれば、オーケストラが終演後ホールの玄関でお見送りをするなどと言うのは醜悪な上に百害あって一利なしなのである。

しかし、私は上記のような反対意見は並川氏に言わなかった。単に「重要なことだから、事前にご相談いただきたかった」。と言っただけである。しかし、内心この人はオーケストラの団員の立場や気持ちがわかっていないのではないか、とは思った。

しかし後で考えるとこの「お見送り」は京都市幹部が「オーケストラ団員の忠誠心を確かめることができる」という陰湿でしたたかな下心が込められていることは、まだわからなかった。

そしてこの日、私が1週間かかってようやく集めた様々な資料が入ったファイルが、デスクの上から何者かによって持ち去られ、1週間分の仕事が最初からやり直しになった。


2012年2月4日土曜日

京都市交響楽団(3)         京都市は職員の犯罪や不祥事が極めて多い

4月はじめの1週間は、まず資料に目を通そうと思った。特に財務関係の諸表は見ておきたかった。また、楽員の勤務条件やシフトがどうなっているのかも知りたかった。私はオーケストラでマネージャーとして働くのであれば、できるだけ音楽的レベルの向上を図れるような条件を考えつつ、経営の改善につなげていきたいと考えていた。それは18年前に高崎でオーケストラアンサンブル金沢の経営について質問した時と変わっていなかった。オーケストラの経営改善は賃金カットや人減らしではなく、定期会員や依頼演奏会の増加、公演全般のチケット売り上げの増加によって行えるはずだというのが私の信念である。その為にはまず魅力的なプログラム作り、指揮者やソリスト、そして合理的なシフトによって練習の質を高めることが何よりである。

しかし、早くもはじめの1週間で次のようなことがわかってきた。まず、バランスシートは内外共に公表されていない。予算書は「人件費を除いた」大雑把な収入、支出が公表されているだけであり、それ以上は内部の人間でも閲覧できない。また、マーケティングリサーチは過去に行われたことがない。演奏会の際に何度もアンケートが行われているが、例えばどの年齢層がどの地域からどの演奏会に来たのかや、定期会員の年齢や性別、居住地域などによる分布は集計も電子化もされていない。広告も、どのような媒体にいつ、どれだけ露出し、その結果どれだけ集客に結びついたのかを集計したデータは作られていない(あるいはデータが取られていない)。

過去のデータの中で唯一電子化されていたのは、創立以来の演奏曲目などプログラムとライブラリーの関係だけだった。アンケートなどはすべてファイリングされて紙データで保管され、集計されて電子化されているのは一部だけだが、毎回アンケートの形式が違うので統計としてはまったり利用不可能な物だった。

数日すると「ジュニアオーケストラのオーディション」というのがあったが、参加したのは数人だけだった。一応業務として行われているはずなのに、かなり酒臭い人がいた。聞けば花見からそのまま直行したらしいが、あまり感心できるはなしではない。私は特に何も言わなかったが、資料を閲覧するうち練習に酒を飲んで出勤したメンバーの問題などが指摘されており(そのメンバーは早期退職したが)問題意識が低いのではないかと感じられた。また、楽器庫や楽器の保管場所が整備されておらず、私物と団の楽器の管理がきちんとされていない事もわかった。山台周辺などにケースが大量に置いたままになっており、打楽器の保管場所も不足していた。あろうことか、過去には団所有の楽器を勝手に売却した人もいたそうだが、その人も処分など受けず、自ら早期退職したということだった。

京都市は職員の犯罪や不祥事が極めて多いと言うことも、京都市交響楽団に赴任してから初めて聞いた。また、刑事罰を受けても解雇されない職員が多いと言うことも聞いて、驚いた。

さて、そうこうするうちに初めてのリハーサルの日がやってきた。私はリハーサルを聴けることも、広上氏と会えるのも楽しみにしていた。4月のはじめなのに汗ばむような陽気だった。練習は午後3時半からだった。指揮者の控え室には飲み物が用意されていたが、何もお茶請けがないのに気がついて、私は昼休みに出町までいって出町双葉の豆餅を買ってきておいた(もちろん自腹で)。新年度初めての練習だし、通常指揮者は早めに控え室に入る物なので、少しは会話ができるかと待ち構えていたが、広上氏は練習開始の15分前まで現れなかった。しかも、広上氏が現れるや財団幹部から新旧事務局長まで、役員が勢揃いして一人二人ずつ控え室に入って挨拶をし、私は後列に待たされて一言紹介を受けただけだった。広上氏は自分だけ座ったままでうなずいているだけだった。私は「お茶請を買っておきましたから召し上がって下さい」と言うのがやっとだった。

その直後、信じられないことが起こった。広上氏は立ち上がって豆餅の包みを持ち上げると、離任する藤田係長に渡し「これ、あんたにやるよ。毒が入っているから」。そう言って練習場に向かっていったのだった。

(続く)

2012年2月3日金曜日

京都市交響楽団(2)         京都市幹部との面談とその後

京都市交響楽団練習場での吉田事務局長らの面接は短時間で終わり、その晩京都コンサートホールで京都市文化市民局文化芸術都市推進室長、平竹耕三氏と引き合わされた。面接と言っても居酒屋で雑談をしただけで、何も具体的な話をしたわけではなかった。2009年2月27日、新井氏から採用の内諾が出たとの知らせを受けた。京都市交響楽団は2月28日に東京のサントリーホールで演奏会を行うことになっていたので、当然それに合わせての内諾で、常任指揮者広上淳一にも紹介を受ける物と思っていた。マネージャーとして交響楽団で働くためには、常任指揮者とのコミュニケーションは重要である。採用が決まったのなら当然真っ先に挨拶するべき人物だ。ところが新井氏は「内諾はまだ部外秘で、28日には会場に来ないで欲しい」という。この事が後で広上淳一とのトラブルの一因となる。この段階で新井氏、京都市の幹部と広上の間で何が起こっていたのかはよくわからない。

3月に入ると新井氏を通じていくつかの連絡が入る。まず、京都に引っ越すこと。これについては家族全員で引っ越せばまとまったお金がかかるし、札幌のことからしても内諾の段階では何が起こるかわからない。面接の際の交通費すら出してくれなかったのだから、引っ越しの費用などとうてい出してもらえない。それにまだ辞令も出ていなければ雇用契約も結ばれていないのだ。とりあえず単身者向きのマンションを借りて私だけが京都に引っ越すこととなった。
次に住民票を京都に移して、さいたま市の健康保険を脱退するように言われた。少々不安が残るが、3月末には京都に移動し、住民票を移して保険の脱退手続きをする。3月31日には尾高忠明指揮によるマーラーの5番が演奏されることになっていた。これもできれば練習から聴きたかったのだが、同様に新井氏から「まだ正式に勤務していないのだから、練習場にも演奏会にも来ないで欲しい」と言われる。私はヨーロッパ的なオープンな感覚だが、それは別として日本的な感覚でもそろそろ「おかしい」と感じるようになってきた。こんな異常な事態があるだろうか?

さて、いよいよ3月末に、4月1日の「辞令交付式」の案内をもらう。「辞令交付式」は京都コンサートホールの小ホール「アンサンブルホールムラタ」で行われることになっており、かなり異様なことにオーケストラ全員の座席まで指定されているのだった。この年の4月1日から京都市交響楽団は京都市音楽芸術文化振興財団に移管されることとなっており、楽団員全員が財団の非常勤嘱託職員となる事が決まっていたのだった(この事についてはいずれ述べる)。
わざわざホールを使って行われたこの「辞令交付式」で3通の辞令が交付された。1通目と2通目は京都市長、門川大作名、3通目は京都市音楽芸術文化振興財団理事長名の、いずれも「人事異動通知書」である。1通目には「非常勤嘱託員に採用する」2通目には「財団法人京都市音楽芸術文化振興財団に派遣する」3通目には「京都市交響楽団サブマネージャーを命ずる」と書かれていた。壇上には平竹氏ら京都市と財団の幹部が並び、新井氏と私、それにこの年新規に採用された楽員の代表がこの「辞令」の交付を受けるだけのために集められたのだった。
当然初日に渡されるだろうと思っていた、健康保険証や雇用契約書、労働条件や勤務形態に関する書類などは一切無かった。辞令交付式の後は京都市、財団幹部とマネージャーだけが別室に集められた。交響楽団の運営形態が変わることで何か説明があるのかと思ったがそのような話しはなく、平竹氏の口から出たのは「しばらく演奏旅行に行っていないので、どこかに行きたい」などという非常に危機感のない話だった。私は今までの経緯からしても、新参者が何も言わない方が良いだろうと思って単に調子を合わせていた。

翌日から楽団はジュニアオーケストラのオーディションに出席する楽団員を除いて1週間の公休日に入った。予定表を見てわかったのは「異常に演奏回数、楽団員の出勤回数が少ない」ということ、事務局は年度が替わっているのにまだシフトも発表されておらず「休みがまったくないらしい」ということだった。「早く広上氏と会って話がしたい」という私の希望は入れられなかった。事務局スタッフは事務局長、係長とも移動となり、事務所には前任者の荷物、廃棄する資料などが山積みになったままだった。

(続く)

京都市交響楽団(1)         初対面の来客に挨拶しない事務局員達

京都市交響楽団音楽主幹、新井浄氏から「京都市交響楽団を助けてくれませんか」という悲痛な電話がかかってきたのは2009年1月のことだった。15年以上にわたって群馬交響楽団事務局次長を務めた(事務局長には経験の如何を問わず件から天下りした人間しかなれない)新井氏とは20年来の付き合いで、私の紹介でクルト・レーデルマーク・アルブレヒトといった指揮者が群響に客演した。ペーター・シュミードルをはじめ様々なソリスト達の通訳も務めた。但し、私自身は音楽教室の指揮にすら呼んでもらったことはない。

新井氏は2008年京都市交響楽団音楽主幹となったが、京都市は当時すでに財政再建団体すれすれの900億円を超える赤字を抱え、京都市交響楽団も3年間で1億3000万円の予算カットを迫られていた。京都市の嘱託職員だった楽団員も全員が外郭団体の「京都市音楽文化振興財団」の非常勤職員に移管されることが決まっていた。京都市はこれまでにも非常勤嘱託職員を一度に大量に雇い止め(=契約を更新しないこと)して裁判が多発している。財団に移管された場合、財団の経営が悪化すれば一気に全員解雇、解散と言うこともあり得る。楽団存続の危機の中、常任指揮者の広上淳一は梶本音楽事務所(当時、現在は株式会社AMATI)の荒井マネージャーとともに人事をはじめとする様々な問題に干渉し、曲目も多額のエキストラ代が発生する大編成の曲ばかりを演奏するほか、自らを客演に招いてくれる国内の他のオーケストラの常任指揮者たちばかりを京都市交響楽団の客演指揮者に招き、定期演奏会の顔ぶれはほぼ固定化されていた。

ヨーロッパのオーケストラの事務局長は通常指揮者やオーケストラソリストクラスの音楽家が兼務することが多い。カラヤンを大成功に導いた、当時のベルリンフィルの事務局長シュトレーゼマンは自らが指揮者であった。バンベルク交響楽団の事務局長を長年勤めたロルフ・ベック氏はドイツでも著名な合唱指揮者であり事務局長と「バンベルク交響楽団合唱団」の指揮者を兼務していた。日本の地方オーケストラの事務局のほとんどで、トップに座っているのは県庁や市役所から天下りした役人、または何らかの理由でリタイアした(現役ではない)元オーケストラ団員だ。新井氏も「クラシックが好きで合唱の経験がある」という程度の理由で高崎市役所から群馬交響楽団事務局に出向させられたが、他に人材がいないとの理由で15年の長きにわたって群響に務めたのである。

その新井氏が私に声をかけたのにはもう一つ理由がある。2003年、札幌交響楽団が新聞や音楽雑誌に公告して事務局長を公募した。札幌交響楽団は前年までに財団の基本財産のほとんどを「金利が高い」という見かけ上だけの理由でジャンク級のアルゼンチン債に投資し、アルゼンチンのデフォルトでほぼ破産状態となって理事会が総辞職し、事務局もメンバー全員を入れ替えることとなって存続の危機に瀕していた。音楽に関する知識どころか経営に関する知識もまったくない、こんなデタラメな経営が行われていたのだ。理事会の総辞職を受けて北海道新聞から送り込まれた佐藤光明専務理事は、外部から人材を入れるため事務局長を公募することにしたのだった。私はこの公募に応募して様々な推薦状、小論文などを提出し4月末に佐藤光明専務理事(当時)から内定の通知を受けた。ところが佐藤専務理事は専横で楽団経営をすることが面白くなってしまったらしい。札幌交響楽団は私の赴任時期を次々と引き延ばし、その間に佐藤氏がデタラメな経営を行って楽団員達は眉をひそめたらしい。2003年秋には「舞台での歩き方が悪い」などと言ってファッションモデルのウォーキングコーチを呼び、楽団員達に延々「歩行の練習」をさせたらしい。その際にソリストの女性にまで「あんたもやるか?」と声をかけたそうで、ソリストから苦情を受けた指揮者の円光寺氏が抗議し、円光寺氏の元に大量のカニが送られてきたが円光寺氏は受け取らなかったらしい(関西のオーケストラ事務局談)。2003年末に同理事から私に「申し訳ないが音楽監督尾高忠明の意向で、元大阪フィル事務局長の宮澤敏夫氏が事務局長に選ばれた。杦山さんには時期事務局長と言うことでご了承頂きたい」という連絡があったのだ。オーケストラが事務局長を一般公募し、一度内定を出しておきながらその人事をひっくり返して情実で業界内の人間を採用するなどと言うのは大スキャンダルである。当時はまだチェコでの講習会や客演指揮なども入っていた物をキャンセル、しかも半年以上も待機させた上の話で、私はキャンセルや休業に関して何の保証も得ていない。しかし私は「業界内であまり波風を立てない方がよい」と思っていたのですぐに裁判を起こさなかったのが大失敗であった(カニは送られてこなかった)。

新井氏はこの公募の件で憤慨しており、札響が公募で内定した人事を反故にして情実で事務局長を決めた話は業界内ではかなり広がっていたのである。また前年、私が新国立劇場で自ら指揮して上演したR.シュトラウスの歌劇「ナクソス島のアリアドネ」の著作権を巡って、弁護士を立てずにすべての裁判に勝訴し、日本におけるR.シュトラウスの戦時加算無効を証明した事もあって、アートマネージメントや著作権、そして何より音楽の世界の裏も表も知り尽くしている私をマネージャーとして京都市交響楽団に迎えたいと思ったのである。

2月中旬、私は吉田事務局長(当時)、平竹耕三市民文化室長(当時、後の京都市交響楽団ゼネラルマネージャー)の面接を受けるために京都を訪れた。初めて行く鴨川沿いの練習場に、新井氏が説明したとおりに行こうとしたが、路地を一本見落としてしまった私は鴨川の土手に出てしまった。何のことはない練習場の正面玄関が見えたので私は約束の時間通りに建物に入って行った。するとそこで信じがたいことが起こった。事務所内にいた三人の女性は、名を名乗って挨拶し、要件を告げている初対面の私に挨拶をせず、顔さえ見ず、単に係長を呼びに行ったのだった。私は啞然としたが係長は会釈して新井氏を呼びますと言い、間もなく新井氏が小走りにやってきて私が説明されたとおりの入口から入らなかったことを責めた。どうやら、事務局の三人の女性たちはすでに新井氏とは険悪な関係にあり、なおかつその日にどのような人物がどのような用件で現れるのかはわかっていたので、そういう態度を取ったらしい。そして、新井氏は私にその状況を前もって詳しく説明せず、しかも事務所のある練習場に私を呼んで、事務局長と面談をさせたのだ。そこで「説明した道順通りに練習場に来て、裏口から入って欲しかった」らしいのだ。

私は以前にも京都で仕事をしていたことがあるので、京都というのがむずかしいところだと言うことは知っている。しかし、初対面でどういう人物かも知らない人間に会釈も挨拶もせず、顔さえ見ようとしない人間達(それも30過ぎの大人である)が居るのかと思うと、暗然とした気持ちになった。

その後の京都市交響楽団での事件についてはこちらに続編を書きます。