2012年4月26日木曜日

京都市交響楽団(9)         第一回口頭弁論期日が取り消しになりました。

4月27日に予定されていた第一回口頭弁論は、被告からの京都地方裁判所への移送の申し立てにより取り消しになりました。5月11日までに移送に関する意見を述べて、新たな日程が東京、または京都の地方裁判所から通知されることになると思います。

私としては東京地方裁判所で公判が行われることを望んでおり、その旨の意見を述べようと考えております。

2012年4月14日土曜日

京都市交響楽団(8)

新井音楽主幹は広上淳一の言い分にかなり不満があったのに一言も言い返さなかったふうであった。京都の居酒屋に入るなりそれを私に向かって吐き出し始めた。曰く「杉山を採用したのは事務局に音楽の専門家、著作権や法律に関する知識のある人間がいないことから、長期間京都市の幹部と話し合って決めたことだ、人事権のない常任指揮者である広上にそれに口を出す筋合いはない」。恐らくそういう事なのだろう。しかし、日本社会に当たり前に存在する根回しを、しかも非常に保守的な風土である京都で、この人はまったく行わなかったのであろうか?しかも、常任指揮者である広上淳一に事前の紹介もなく事務局に赴任することには私にも大きな不安があった。2月28日、東京公演の直前に内定の通知があったと言うことは、私としては当然東京公演の際に紹介を受ける物と思っていたのである。今までどの職場でも、業務の始まる数日から数週間前に同僚や上司を紹介され、業務の概要について説明を受けたり、場合によっては赴任までの間に読んでくる書類や資料、楽譜などを渡されたりした。それが、京都市交響楽団の場合は赴任前日に行われた尾高忠明指揮の定期演奏会の練習にすら(すでに京都で待機しているのに)「まだ業務が始まらないので来ないで欲しい」と言われて出席させてもらえなかった。新井氏のやり方は私にはまったく理解できなかった。

2012年4月9日月曜日

京都市交響楽団(7)         大阪での演奏会後

演奏が終了すると、予て並川事務長から一方的に発表があったとおりホール玄関での「お見送り」が行われ、その為汗だくになった楽団員達が楽屋から狭い通路をホール玄関に走った。「お見送り」については事務局内部だけではなく、ユニオンからも一切反対意見が聞かれなかったことが不思議だった。京都市交響楽団が財団に移管され、楽団員の身分も財団に出向となったことから何かに意見を言ったりすることが不利益な扱いにつながるのではないかという不安感が楽団全体に満ちている中、楽団員全体に対して相談のないまま決まっていくことが多いように感じた。思えば「楽団員総会」の様なものが行われないのも不思議だった。

私は「お見送り」には反対だったが自分の意見がどうであれ、組織として一旦決まった事は守らなくてはならない。0円のスマイルを湛えて、私は楽団員有志と共にシンフォニーホールの玄関に並んだ。

聴衆の退館が終わって、事務局員や副市長をはじめとする京都市の幹部が指揮者の楽屋を訪ねた。広上淳一はおどけて見せているのか、わざとヒステリックな笑い声を出して一同を迎えたが、私には良く意味がわからなかった。訪問は長くはかからず、ようやく広上淳一と新井音楽主幹、それに私の三人だけでホールを出て福島駅近くの居酒屋に入った。

私は対面に、新井音楽主幹は広上淳一の左側に座った。私は先ずは丁重に挨拶をし、当日のコンサートお疲れ様でしたと述べた。しかし広上はまず新井音楽主幹の当日の「失態」を執拗に責め立てた。楽団員に範を垂れなくてはならない音楽主幹が、演奏会当日楽屋口に座り込んで喫煙しているとは何事か、みっともない、その連続であった。確かにあまり褒められたことではないが、その叱責があまりに執拗なので私は少々不快に感じた。新井氏は私よりも6、7歳広上から見ても5歳ほど年長である。なのに広上はまったく対等に話している。しかも新井氏の肩を何度も叩いていた(もちろん、痛いほどの叩き方ではないがよほど親密な関係でなければ非礼であろうと思えた)。

一頻り叱責が終わると広上は私に「今度はお前の話を聞こう」と言った。私なら年が20歳離れていても(あるいは相手が子供でも)数回会っただけの人間に「お前」とは言わないが、まあそういう人なのだから仕方ない、と思い私は自分の生い立ちなどを語った。広上はしばらく黙って聞いていたが、武蔵野音大でのキンカンの話などになると「俺も東京音大では小便をかけられた」などと自分の苦労話も挟みながら私の話をよく聞いてくれた。しかし、ウィーンで世話になった湯浅勇二氏の話になると、いろいろ湯浅氏をくさすような話を突っ込んできた。
私は湯浅氏とは25年来の知り合いだし、いろいろ世話になったこともある。しかし、湯浅氏に指揮を習ったことはないし(テクニック的な質問をしたり、レッスンを聴講したことはあるが)指揮者としての湯浅氏やその人格をいろいろと批判されても返す言葉もなかった。何故、広上が湯浅氏にそう拘泥するのかはよくわからなかったが、東京音大で指揮を教えていることと何か関係があるのか、湯浅氏の門下からコンクール優勝者が数多く出ていることにコンプレックスでもあるのか、などと考えてみたくもなった。

私の話が終わると広上は「お前も音楽家崩れでいろいろ苦労していることはわかった。しかし新井主幹の方から俺の方にきちんと話がなかった」と一方的に新井氏を非難するような口調になった。私には私を採用するに当たって京都市の内部で、あるいは京都市と広上の間でどのような事前の根回しが行われているのか、あるいは行われていないのかなど知る由もないし(たとえあったとしても新井氏はそういう事を一々事前に教えてくれるような人ではない)そんな事を私を前にして言われても何も言いようがなかった。

広上はその日のうちに東京に戻らなければならないそうで、あまり遅くならないうちに梅田まで広上を送って私と新井氏は京都に戻った。帰りの電車の中で新井氏はいたく不満な様子であった。京都に着くと新井主幹は飲み直そうと私を誘った。

(続く)

2012年4月4日水曜日

京都市交響楽団(6)         大阪での演奏会

京都コンサートホールでのスプリングコンサートの翌日、午後から4月11日は大阪公演のための練習が行われた。「カルメン」第一組曲と「ラプソディ・イン・ブルー」は共通のプログラムだったが、ソリストが京都では小曽根真氏、大阪では山下洋輔氏だったのでもう一度合わせが必要だった。そのため、休憩後のメインのプログラム、チャイコフスキーの「悲愴」にかけられる練習時間は限られていた。チャイコフスキーの「悲愴」は名曲だが、難曲でもある。チャイコフスキーの交響曲の中では「マンフレッド」と並んで演奏は最も難しい曲の一つだと言うことに異論はあるまい。しかし、誰もがよく知っている名曲には油断も生じる。

大阪公演のメインプログラム「悲愴」にかけられる練習時間が2時間半ほどしかないと聞いた時、私はてっきり「比較的最近広上淳一の指揮で演奏されているために、練習は思い出し稽古程度しか必要ないのだろう」と思った。展開部のすぐ前で習慣的に使われるバスクラが、何の打ち合わせもないのに舞台に用意されていたのも指揮者からリトゥシェの指示があったからだと思った(後で聞いたら別に指示はなくて「悲愴」の時は必ずバスクラを出していたらしい)。しかし、メンバーに聞いてみるとそうではないらしいことがわかった。少し危険なのではないか、そして何より練習1回、GPで本番というのはうるさがたの多い大阪での本番に向けたリハーサルとしてはどんなもんなんだろうと思った。そこで練習開始前に控え室を訪ね「スコアを見ながら練習を聞かせていただいて良いですか?」と広上に尋ねた。広上はその日は機嫌がよいようで「いいよ」とのことだった。そうこうするうちにリハーサルが始まった。

私は広上淳一の音楽そのものについては否定も肯定もしないが、全体に非常に大袈裟で、知的と言うよりは感情的な音楽の作りであるように感じた。オーケストラの音色や、音楽の質感にこだわると言うよりは、音楽の全体像を鷲掴みにするようなとらえ方で、ある意味ダイナミックとも言えよう。また、ボリュームの上がるところで常にテンポも同時に速くなる傾向もあるように感じた。こういう音楽に乗っていくのはオーケストラにとっては気分の良いもので、少し粗い部分があったものの、練習は順調に終わった。但し、あくまで「1日目の練習」と言う出来だった。第1楽章はまだ「譜読み」の出来てない場所が残っており、16分音符がトレモロになってしまっているところも多かった。第3楽章はどうしてもリズムの噛み合わないところがあったが、細かい練習をしている時間はどう考えてもなかった。練習後少しだけ、広上と話す時間があった。使っているスコアの話などほんの少しだったが、翌日の演奏会後にわざわざ私と飲みに行くために時間を取ってくれると言うことだったので丁重に礼を述べた。

翌4月12日の朝早く、私は京都を出て大阪に向かった。大阪はしばらくぶりで梅田の駅前はすっかり様子が変わってしまっていたので、工事中の場所を避けてシンフォニーホールにたどり着くのが少し大変だった。練習開始の小一時間前にホールに入った私は舞台裏と客席を行ったり来たりして練習の始まるのを待っていたが、その間に楽屋口で一悶着起きていた。指揮者の広上が楽屋入り口に着くと、音楽主幹の新井氏が楽屋口に「ウンコ座りしてタバコを吸っていた、みっともない!」と言って広上が激怒したというのだ。私は現場に居合わせなかったが、その後ホールに入った広上は舞台上でその時の状況を再現しながら大勢の関係者に新井氏を非難していた。そして、リハーサル(GP)が始まった。

GPの出来は大変素晴らしかった。ホールでのリハーサルとは大きな違いでオーケストラも良くなっており、細かい点にこだわらないスケールの大きい音楽だった。予定時間通りにリハーサルを終え、昼食は初めて楽員達数名とともに外で摂ることが出来た。音楽について会話も盛り上がって、早めにホールに戻りいよいよ大阪公演を迎えることとなった。

演奏会が始まって、前半はそのまま無事に終了した。事故が起こり始めたのは「悲愴」の第1楽章である。18小節目のフェルマータの後、GPまでは比較的冷静に指揮をしていた場所で、広上は急にヴィオラの方を向いて、ものすごく引っ張っていこうとするようなジェスチャーをした。ヴィオラが重く感じたのだろうか?しかしその後、広上はGPまでずっと出していた23小節目のフルートへのアインザッツを本番の時だけ出さずに、木管楽器の方を向き直ったのが都合1拍分いつもより遅かった。いつも出されていたアインザッツが突然無くなった1番フルートの最初の音が転ぶ。これをきっかけに「悲愴」に仕組まれた複雑なリズムのからくりがほんのちょっとだけずれ始める。GPでは揃っていた16分音符が僅かなきしみを伴ってずれていった。第2主題で持ち直したものの、GPの時の緊張感は完全に失われていた。そしてクライマックス、練習記号Qのところで再び事故が起きた。広上はGPまでQまでを4つで、Qから2つで振っていたのだけど、本番ではテンポは落ちたものの、Qから後も4つのまま振り続けたのだ。すぐに気がついていつも通りの振りに戻したものの、Qの後管楽器がカウントできなくなってオーケストラが崩壊し始めた。Qの9小節目のアウフタクト(弦楽器と高音木管)と、10小節目のアウフタクトが1小節ではなくて半小節ずれて(トロンボーンとチューバが2拍早く)始まる。弦楽器も崩壊しそうになるがコンサートマスターの泉原氏が必死に抑える。数小節そのまま進んだ後何とか混乱を収拾してオーケストラは立ち直った。時間にして数秒ほどのことだが、異常に長く感じたのは客席にいた私だけではあるまい(4月6日、一部記憶違いがあったので訂正しました。)。

「悲愴」はプロフェッショナルなオーケストラのレパートリーとしてはスタンダードな名曲である。しかし、過去に同じ指揮者とやったことがなかったり、数年間があいた場合はやはり入念な稽古が必要だと思う。定期演奏会の練習ほどでなくても、せめて京都での演奏会のリハーサルの際にもう一コマ練習を取っておけなかったのか、そもそもそうしたことにも助言を求めるためにわざわざ音楽家である私を「副音楽主幹」という職に招いたのではなかったのだろうか?しかし、事前にそのような発言が許されるような雰囲気はまったくなかったことは、この後の展開を読んで頂ければ納得して頂けることと思う。

(続く)