2012年2月3日金曜日

京都市交響楽団(1)         初対面の来客に挨拶しない事務局員達

京都市交響楽団音楽主幹、新井浄氏から「京都市交響楽団を助けてくれませんか」という悲痛な電話がかかってきたのは2009年1月のことだった。15年以上にわたって群馬交響楽団事務局次長を務めた(事務局長には経験の如何を問わず件から天下りした人間しかなれない)新井氏とは20年来の付き合いで、私の紹介でクルト・レーデルマーク・アルブレヒトといった指揮者が群響に客演した。ペーター・シュミードルをはじめ様々なソリスト達の通訳も務めた。但し、私自身は音楽教室の指揮にすら呼んでもらったことはない。

新井氏は2008年京都市交響楽団音楽主幹となったが、京都市は当時すでに財政再建団体すれすれの900億円を超える赤字を抱え、京都市交響楽団も3年間で1億3000万円の予算カットを迫られていた。京都市の嘱託職員だった楽団員も全員が外郭団体の「京都市音楽文化振興財団」の非常勤職員に移管されることが決まっていた。京都市はこれまでにも非常勤嘱託職員を一度に大量に雇い止め(=契約を更新しないこと)して裁判が多発している。財団に移管された場合、財団の経営が悪化すれば一気に全員解雇、解散と言うこともあり得る。楽団存続の危機の中、常任指揮者の広上淳一は梶本音楽事務所(当時、現在は株式会社AMATI)の荒井マネージャーとともに人事をはじめとする様々な問題に干渉し、曲目も多額のエキストラ代が発生する大編成の曲ばかりを演奏するほか、自らを客演に招いてくれる国内の他のオーケストラの常任指揮者たちばかりを京都市交響楽団の客演指揮者に招き、定期演奏会の顔ぶれはほぼ固定化されていた。

ヨーロッパのオーケストラの事務局長は通常指揮者やオーケストラソリストクラスの音楽家が兼務することが多い。カラヤンを大成功に導いた、当時のベルリンフィルの事務局長シュトレーゼマンは自らが指揮者であった。バンベルク交響楽団の事務局長を長年勤めたロルフ・ベック氏はドイツでも著名な合唱指揮者であり事務局長と「バンベルク交響楽団合唱団」の指揮者を兼務していた。日本の地方オーケストラの事務局のほとんどで、トップに座っているのは県庁や市役所から天下りした役人、または何らかの理由でリタイアした(現役ではない)元オーケストラ団員だ。新井氏も「クラシックが好きで合唱の経験がある」という程度の理由で高崎市役所から群馬交響楽団事務局に出向させられたが、他に人材がいないとの理由で15年の長きにわたって群響に務めたのである。

その新井氏が私に声をかけたのにはもう一つ理由がある。2003年、札幌交響楽団が新聞や音楽雑誌に公告して事務局長を公募した。札幌交響楽団は前年までに財団の基本財産のほとんどを「金利が高い」という見かけ上だけの理由でジャンク級のアルゼンチン債に投資し、アルゼンチンのデフォルトでほぼ破産状態となって理事会が総辞職し、事務局もメンバー全員を入れ替えることとなって存続の危機に瀕していた。音楽に関する知識どころか経営に関する知識もまったくない、こんなデタラメな経営が行われていたのだ。理事会の総辞職を受けて北海道新聞から送り込まれた佐藤光明専務理事は、外部から人材を入れるため事務局長を公募することにしたのだった。私はこの公募に応募して様々な推薦状、小論文などを提出し4月末に佐藤光明専務理事(当時)から内定の通知を受けた。ところが佐藤専務理事は専横で楽団経営をすることが面白くなってしまったらしい。札幌交響楽団は私の赴任時期を次々と引き延ばし、その間に佐藤氏がデタラメな経営を行って楽団員達は眉をひそめたらしい。2003年秋には「舞台での歩き方が悪い」などと言ってファッションモデルのウォーキングコーチを呼び、楽団員達に延々「歩行の練習」をさせたらしい。その際にソリストの女性にまで「あんたもやるか?」と声をかけたそうで、ソリストから苦情を受けた指揮者の円光寺氏が抗議し、円光寺氏の元に大量のカニが送られてきたが円光寺氏は受け取らなかったらしい(関西のオーケストラ事務局談)。2003年末に同理事から私に「申し訳ないが音楽監督尾高忠明の意向で、元大阪フィル事務局長の宮澤敏夫氏が事務局長に選ばれた。杦山さんには時期事務局長と言うことでご了承頂きたい」という連絡があったのだ。オーケストラが事務局長を一般公募し、一度内定を出しておきながらその人事をひっくり返して情実で業界内の人間を採用するなどと言うのは大スキャンダルである。当時はまだチェコでの講習会や客演指揮なども入っていた物をキャンセル、しかも半年以上も待機させた上の話で、私はキャンセルや休業に関して何の保証も得ていない。しかし私は「業界内であまり波風を立てない方がよい」と思っていたのですぐに裁判を起こさなかったのが大失敗であった(カニは送られてこなかった)。

新井氏はこの公募の件で憤慨しており、札響が公募で内定した人事を反故にして情実で事務局長を決めた話は業界内ではかなり広がっていたのである。また前年、私が新国立劇場で自ら指揮して上演したR.シュトラウスの歌劇「ナクソス島のアリアドネ」の著作権を巡って、弁護士を立てずにすべての裁判に勝訴し、日本におけるR.シュトラウスの戦時加算無効を証明した事もあって、アートマネージメントや著作権、そして何より音楽の世界の裏も表も知り尽くしている私をマネージャーとして京都市交響楽団に迎えたいと思ったのである。

2月中旬、私は吉田事務局長(当時)、平竹耕三市民文化室長(当時、後の京都市交響楽団ゼネラルマネージャー)の面接を受けるために京都を訪れた。初めて行く鴨川沿いの練習場に、新井氏が説明したとおりに行こうとしたが、路地を一本見落としてしまった私は鴨川の土手に出てしまった。何のことはない練習場の正面玄関が見えたので私は約束の時間通りに建物に入って行った。するとそこで信じがたいことが起こった。事務所内にいた三人の女性は、名を名乗って挨拶し、要件を告げている初対面の私に挨拶をせず、顔さえ見ず、単に係長を呼びに行ったのだった。私は啞然としたが係長は会釈して新井氏を呼びますと言い、間もなく新井氏が小走りにやってきて私が説明されたとおりの入口から入らなかったことを責めた。どうやら、事務局の三人の女性たちはすでに新井氏とは険悪な関係にあり、なおかつその日にどのような人物がどのような用件で現れるのかはわかっていたので、そういう態度を取ったらしい。そして、新井氏は私にその状況を前もって詳しく説明せず、しかも事務所のある練習場に私を呼んで、事務局長と面談をさせたのだ。そこで「説明した道順通りに練習場に来て、裏口から入って欲しかった」らしいのだ。

私は以前にも京都で仕事をしていたことがあるので、京都というのがむずかしいところだと言うことは知っている。しかし、初対面でどういう人物かも知らない人間に会釈も挨拶もせず、顔さえ見ようとしない人間達(それも30過ぎの大人である)が居るのかと思うと、暗然とした気持ちになった。

その後の京都市交響楽団での事件についてはこちらに続編を書きます。

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