2012年1月30日月曜日

堀越学園で働く

後の創造学園大学、高崎芸術短期大学の母体となる堀越学園は堀越久良、嶋子夫妻が1966年、幼稚園を運営するために設立した。東京の堀越学園とは別団体である。1968年に高崎保育専門学校、1981年は高崎短期大学音楽科が設立された。作曲家入野義朗氏の遺志を受けて洋楽科と邦楽科を併設し教授陣には作曲家一柳慧氏、箏の沢井忠夫氏など著名な音楽家が名を連ねた。建学の理想とは裏腹に学園の運営に異変が起きるのは1980年代後半に小池哲二氏(小池哲二、小池大哲、堀越哲二、堀越大哲すべて同一人物)が副学長に就任した時だ。

堀越夫妻には実子がいなかったが、関係者の話では「どうしても血のつながっている人間に学園の運営を譲りたい」と小樽商科大学を卒業して大阪府吹田市の職員となっていた小池氏を養子とし、まずは事務長として堀越学園に迎え入れた。本来芸術専攻でもなく、芸術系の大学の学長となるような器でもなかった小池氏だが、まもなく自ら副学長に就任し、カリキュラムを含む学校の運営を独占するようになる。1988年には美術科を増設し、名称を高崎芸術短期大学としたが、当初から設備や教職員の数などが大幅に不足していた。

高崎芸術短期大学では学長の思いつきで日本庭園「水琴亭」の造営や年に数回の学園祭など様々なイベントが繰り返され、ことごとく失敗に終わっていた。学生の誘致につなげようと始めた「高校生国際音楽コンクール」では上位入賞するような優秀な学生はこの大学には寄りつかず、漫画家のやなせたかし、詩吟の笹川鎮江と学長が利用できそうな人物と知り合う度に部門を増やし、収拾が付かなくなっていた。海外の学校制度に無知なため日本の「高校」に該当しない年齢の受験者がいたり審査にも学長自身が口出しして審査員とトラブルが絶えなかった。小池氏が学長になるとまもなく一柳氏や沢井氏のような著名な教員はほとんどがこの学校を去った。多野郡の寺院から「三福像」なる物を借りだして「三福庵」なる物を建立し、高崎高校近くの校地に井戸を掘って「三福庵の水」という水を汲んで「ガンに効く」などと言って売り出したのもこの頃だ。

私の仕事は「オーケストラの指導」だったが、この「堀越学園オーケストラ」も前々年度に学長の思いつきで始めたものの、当然のことながら指導者もいないのでまったくうまく行かず、翌年太田ジュニアオーケストラの南伸一氏を非常勤で指導に招いたが、学長と対立して一年でやめさせてしまい、94年の春は非常勤講師ですらないアルバイトのような人が週に一日だけ来ることになっていた。ヴァイオリンやコントラバスなどは専攻の学生が2学年で1人ずつしかおらず、専科の学生でオーケストラができるような状況ではまったくないのに、ピアノや声楽、箏などの学生の副科に、保育専門学校の生徒まで必須単位にしてオーケストラに参加させていた。その上、1年生、2年生を別々の時間にしてあるので、本来履修している時間の前後に任意で参加させてやっと各楽器がある程度揃う程度だった。

私は1994年3月中に数回学校を訪問して、前年度までの状況、履修者の人数やレベル、楽器や楽譜の状況を詳しく調べた。

管楽器は専攻の学生で何とか人数が足り、足りないところも中高のブラス経験者がある程度の人数いるので揃えることができた。弦楽器は韓国製の1本1万円くらいの(当時の韓国製は本当に酷かった)ヴァイオリンが30丁ほど、その他の楽器も一応の本数がリースされていたがいずれもあまりに酷いので返却してドイツ製の物をその半分ほどの本数入れてくれるように要求した。

3月の最終週からは毎日出勤した。4月からは専任講師として週5日出勤することになった。当時は事務は比較的しっかり機能しており、初日には健康保険証などの必要書類を渡された。雇用契約はなかった。学長からは「高崎に骨を埋めるつもりで来て下さい」「高崎に引っ越して欲しい」などと言われたが、そう言われてきた教授や講師のほとんどが半年から3年ほどで退職したり、解雇されたりしていることを知るのにそう時間はかからなかった。

4月になって実際授業が始まると、副科の学生も意欲が高く弦楽器でも1年間で1ポジションの音階くらいは弾ける学生が多かった。そこでヴァイオリン、ヴィオラ、チェロだけ月に一回国立音大のOBを呼んで楽器毎に指導してもらうことも決まった。週に一日、金曜日に1コマ1時間半の授業が1年生、2先生と連続であるが、可能な限り1年生は2年生の時間、2年生は1年生の時間も参加するように呼びかけて、実際かなりの数の学生は連続で授業に出席した。但し、レッスンだの行事だのが入ってかなりの数の学生がまとめて抜けることもあった。

私が授業として持ったのはこの金曜日の2コマだけだが、授業の準備にはものすごく時間がかかった。まず、楽器のうちすぐに使える状態の物は半分もなかった。弦の切れた弦楽器、音のでない木管楽器、バルブの動かない金管楽器などが沢山あり、授業に来ても座っているだけの学生が半分くらいいて、交替で楽器を使っていた。弦が間違ったペッグに巻かれていて、チューニング中に切れてしまう物もあった。4月中にリースされていた韓国製の楽器はすべて引き取らせ、ドイツから届いた弦楽器については専門の職人を呼んで再調整し、管楽器は主に私が楽器庫にこもって調整した。それより非常に手間がかかったのは、1ポジションでほぼ弾けるように、様々な曲の弦楽器のパートを書き直し、それに伴って欠けている弦楽器の部分を補うように管楽器のパートも書き直すこと、つまり演奏するすべての曲をほぼ全面的に編曲しなければならないことだった。授業時間以外は学長の気紛れで学校案内やコンクールの要項など様々な印刷物の制作「国際教育研究所」の管理などにかり出された。印刷物は校正刷りができてから何度も修正が入るのが当たり前だった。他の教員は授業を放り出して学生集めの営業に行かされていたが、私は免許を持っていないのでそれが割り振られないだけましだったかも知れない。学校見学の前などは全教員と学生が動員されて「除草」を行ったりした。
週5日の出校日は8時の「朝礼」までには出校してタイムカードを押し、毎日高崎を22時40分に出る、上りの最終新幹線で家に帰った。新幹線での通勤が認められるのは運が良いらしかった。

連休が明けてしばらくするまでには、この学校で何が起こっているかが概ねわかった。

(続く)

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