2012年1月25日水曜日

オーケストラからの誘い

メセナ在職中は安月給だったが定時退局で時間はたっぷりあった。丁度この頃恩師、クルト・レーデルを指揮者に迎えてアマチュアの有志を集め「日独楽友協会管弦楽団」(はじめはトーキョードイチェフィルという名称で活動を始めるが、後に改称)の演奏を始めた。18歳の時に私が発起人となって「浦和交響楽団」を結成して以来だが、アマチュアオーケストラの運営というのはある意味プロよりむずかしい面がある。プロのオーケストラは通常自治体やスポンサーが付いて演奏収入を上回る赤字は補填してもらえる。奏者には通常チケットを売る義務はなく、オーディションを行ってプロとしての技術を持った音楽家を必要な人数雇っておけるし、人数が足りなければエキストラを頼む予算も出る。アマチュアオーケストラでは参加費を払って参加する演奏者が丁度良い人数必要だし、演奏者は自分でチケットも売らなければならない。会場費や印刷費がアマチュアだからと言って安くなることはほとんど無い。

しかし「レーデル先生の指揮で演奏したい」というアマチュア音楽家が沢山集まって、最初の演奏会の曲目はブルックナーの交響曲第5番に決まった。

企業メセナ協議会を去るしばらく前、1991年の夏に高崎で行われたオーケストラ関係のシンポジウムに参加した。壇上では新日本フィルハーモニー事務局長の松原千代繁氏が司会をして日本各地のオーケストラの実績が発表された。バブル絶頂期以来、日本のオーケストラのいくつかはスポンサーからの協賛金を人件費を含む経常費に充填する、かなり危ない運営を行っていた。協賛金というのは景気や企業の収益によって大きく変動する。バブルの頃にはメセナブームで常設のオーケストラは協賛金集めに事欠かなかったが、一部自治体関係のオーケストラなどはまだ協賛金を事業費に充てることすら条例などで認められておらず、動きが取れないところもあった。しかし、バブル期に協賛金をあてにして一気に給与を引き上げてしまった自主運営の団体のいくつかは、その後財政難に苦しむこととなる。

中盤に入って石川県音楽文化振興事業団の幹部が発足して間もないオーケストラアンサンブル金沢の成果について誇らしげに発表を始めた。私は少々違和感を感じながらその発表を聞いていた。というのも金沢在住の知人からオーケストラアンサンブル金沢の発足に至る経緯や、問題点について詳しく聞いていたからである。丁度同じ頃、埼玉県でも当時の畑やわら知事の気紛れからオーケストラ結成の話があり、結局あまりに非現実的なシミュレーションから立ち消えになったのであるが、石川県でも当初、人件費のシミュレーションをするのに「地方都市は物価が安いのだから給与は東京のオーケストラの70%ほどで良い」と言う計算をしたと言われている。なるほど生活上の出費は地方都市の方が少ないかも知れない。しかし東京圏をはじめ大都市圏の音楽家はオーケストラの正団員であればある程度レッスンなどの副収入もあるし、音大の講師を務める人も多い。他のオーケストラのエキストラもあればバブルの頃は高収入のレコーディングの仕事なども数多くあった。地方都市ではこうした副収入は限られている。みんなで分け合う「パイ」は小さいのだ。

もう一つは音楽好きの首長の肝いりで作られた楽団は未来永劫安泰なのだろうか?と言う点である。ちょうど埼玉県でもオーケストラ結成の話が立ち消えになったばかりである。オーケストラアンサンブル金沢は当時の石川県知事が指揮者の岩城宏之氏と意気投合して結成されたらしいが、上記の給与の話などからもわかるように、政治家に芸術経営はほとんどわからない。大阪センチュリー交響楽団への支援を打ち切った大阪市の橋下市長は最近大阪市音楽団の経営についても疑問の声を上げているが、もしこうした「音楽嫌い」の首長と政権が交代した場合、楽団が存続できるという補償はあるのだろうか?

石川県幹部の発言後、私は「給与面等でも不安がある地方の新しい団体を運営するにあたり、首長の交代などで団体が解散になったり、雇用条件が悪化することが無いように、若い音楽家の将来を財団はきちんと保証できるか?」という質問をした。会場がややざわめいて、幹部は「大丈夫だと思います・・・」というような回答をして壇上がやや鼻白んだ。司会の松原氏がフォローして下さったので、その場はあまり紛糾せずに先に進んだが、休憩時間になると私は興奮した若い音楽家達に囲まれてしまった。

「杦山さん、よくぞ言ってくれました!」「そういう考え方をする人を待っていたのですよ!」主に日本音楽家ユニオンのオーケストラアンサンブル金沢支部のメンバーだったがその他のオーケストラの人もいた。懇親会の席でさらにいろいろな話をうかがうことができた。

8月末で企業メセナ協議会に辞表を出し、9月はじめの日独楽友協会オーケストラの演奏会があった。演奏会にはオーケストラアンサンブル金沢のメンバーも参加していただき、その後レーデル氏はオーケストラアンサンブル金沢に客演指揮者として招かれた。終わるとすぐに、私はヨーロッパに旅立った。ハノーファーで演奏を行ったり、ハンブルクのマーク・アルブレヒトを訪ねたり、結局ヘルシンキまで行って沢山の友人や、音楽家達と出会った。

日本に戻ってまもなく、私は突然オーケストラアンサンブル金沢のチェリスト、ルードヴィッヒ・カンタ氏の訪問を受けた。カンタ氏と面識はなかったが「金沢ではまもなく事務局長が空席になる。オーケストラのメンバーの中に是非杦山さんに来て欲しいと言う意見があるのですが、受けていただけますか?」とわざわざ東京まで出向いて私に声を掛けてくれたのだった。私はもちろん喜んでお受けしますと言ったが、これはユニオンのメンバーが私を推薦するという意味であって、県がそれを承諾したわけではない。それどころかシンポジウムの席で誇らしげに発表をしていたところ出鼻をくじかれた財団の幹部は私のことを苦々しく思っていただろう。結局石川県はユニオンの推薦を受けた私を採用することはなかった。一方的にユニオンの主張を優先するような運営をすると思ったのだろうか?オーケストラにとっては経営の改善は経営側にとっても、働く側にとっても双方の利益になるはずだったのだが。

しかしオーケストラアンサンブル金沢ではその後団員の待遇が飛躍的に改善され、現在では大都市圏のオーケストラよりも恵まれた条件で活動している。私の発言がそのきっかけになったことは確信している。

これが一番はじめだったが、その後何度もオーケストラの運営の仕事につく機会が訪れる。しかしそれが実現することはなかった。

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