2012年5月27日日曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(7)


しかし、このような事件で弁護士を立てずに勝訴できたのは幸運でもある。主張が正しいからといって必ず裁判に勝てるわけではない。この事件の裁判中にインターネットで著作権関係の判例を検索していると「バドワイザー商標裁判」なるものにであった。バドワイザーは日本ではアメリカのビールとして知られているが、元々「バドワイザー」とはチェコ西部の都市チェスケ・ブデオヴィツェのドイツ語名Budweisの所有形Budweiserを英語読みにしたものである。アメリカのビール会社アンハイザーブッシュは19世紀末に数百年の歴史を持つチェコのビール(1262年創業)、Budweiserの名を借りてビールを醸り始めたが、飲み較べた事のある方にはお判りのとおりこの2つの製品はにてもにつかない代物である。ヨーロッパではアメリカの「バドワイザー」がこの名前でビールを販売することはできない。ところが数年前関西のある業者がチェコから本家本元のBudweiserを輸入し、日本で販売を試みたところアメリカバドワイザー社からクレームが付いた。どうやらアメリカの方が日本での商標登録を先に行っていたらしいのだ。しかしこの件で日本の裁判所はアメリカのビール会社勝訴の判決を下している。事情を知るものにはいかにもグロテスクな判決であるが、裁判とはやはり水物なのである。

さて、この裁判にあたって私が意外に感じたのは、シュトラウスの著作権について2002年に日独楽友協会が争うまで、誰も争おうとしなかったことだ。日本での音楽著作権の保護期間が作曲者の没後50年であり、例外は連合国の作曲家に加算される「戦時加算」だけであることを知っていれば、シュトラウスの作品に戦時加算が行われることは不合理なことに誰でも気が付くはずである。日独楽友協会のような小さな団体がシュトラウスのオペラを上演することは容易なことではないが、全国のプロフェッショナルなオーケストラ、歌劇団体、ホールの主催事業などとしてシュトラウスの作品は頻繁に上演されてきたはずである。なぜ誰もこのことに疑問を投げかけなかったのだろうか。日独楽友協会は私が代表を務める小さな団体で、赤字を出せば私が持ち出さなくてはならない。しかし、大きな団体の場合、特に、支払いを行う担当者自身の懐が痛む訳ではない場合、不正な請求ではないかと疑わしい場合も払ってしまっていたのではないだろうか。「支払いなき場合法的手段をとらざるを得ません」などという但し書きが付いているとますます、現場の担当者は自分がトラブルに巻き込まれるのをさけようと、納得がいかなくても払ってしまったのではないだろうか。不正請求とは言ってもどうせ本人の懐は痛まないのであるから、個人をターゲットにしたものほど反発もなかったのだろう。しかし、目先のトラブルをさけようと団体の予算や税金を不正に支払ったのでは背任行為である。こうした精神風土が総会屋や暴力団につけ込まれる原因ともなったのである。

著作権を扱う専門家の間では少々話題となり、いくつかのホームページに判決文の全文が掲載されているこの事件についてマスコミでほとんど報道されなかったのも意外である。いくつかのオーケストラの事務局やライブラリアン、新国立劇場の顧問弁護士といった人たちからも判決文や契約書などを見せてほしいと依頼の電話があり、わざわざコピーをとって送ってあげたりしたがその後何の挨拶も経過の説明もない。この国のモラルにはがっかりさせられることが多い。

2012年5月24日木曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(6)


日本ショット社は期限ぎりぎりに控訴する。一審では若い弁護士であったが、控訴審では著作権問題のベテラン弁護士を立ててきた。控訴審では前述の争点のほか、音楽著作物の譲渡の法的性質、音楽出版社の利用開発機能の一般的な著作権事案との相違点などを主張してくる。
控訴審は2ヶ月あまりで結審し、6月19日に再び日独楽友協会全面勝訴の判決がある。大筋では一審判決と同じ判決理由であるが、東京高等裁判所は以下の点において、より合理的な判断を下している。
(前略)仮に,控訴人の主張するような,独占的管理権をフュルストナー・リミテッド,ひいては,控訴人が有していたとしても,戦争という特殊な社会情勢のため,フュルストナー・リミテッドないし控訴人が,本件楽曲の著作権を日本において行使し得ないという状況の下では,日本において同著作権を行使する権利を,リヒャルト・シュトラウスに認める,というのが,本件基本契約についての合理的解釈であるというべきである。(後略)

すなわち戦争中の著作権の実際的な所在について、私の主張がより認められたことになる。
原告は上告するが2003年12月19日、最高裁判所第2小法廷の4人の裁判官が、上告審を受理しない決定をし、高裁判決が確定する。1年半足らずのスピード判決でもあった。私は自分ですべての書面を書き、相手方の書証を読み、ドイツ語や英語のものは相手側の訳によらずに翻訳もした。裁判所にも何度も通うことになったし、資料を集めたり六法全書を読んだりと膨大な時間を費やすこととなった。しかし、弁護士を代理人に立てることはなく、どうしてもわからないときは1回5千円の相談料を払って数回相談に行っただけである。費やしたお金は10万円にも満たないだろう。請求された88万615円も払わなくてすんだ。対するブージー&ホークスとその代理店である日本ショット社が失ったものは大きい。有名な弁護士を代理人に立て、資料を取り寄せ、イギリスやドイツの弁護士に原告よりの意見書をいくつも依頼し、欧文の書証は翻訳事務所に依頼して翻訳させたのだろう。裁判に費やした費用だけで数百万円は下らないだろう。そしてこの裁判の結果、2011年まで著作権を主張していたシュトラウスの中期のオペラ(サロメからアラベラまで)と後期の作品(4つの最後の歌、メタモルフォーゼンなど)を含むすべての作品について日本での著作権が終了していることが確認された上、同じ状況で著作権を主張しているフィッツナー、バルトーク、ワイルなどの作品がグレーゾーンとなった。さらに、2000年1月1日以降に徴収した著作権料などを返還しなくてはならなくなった。1994年に来日したウィーン国立歌劇場が「薔薇の騎士」6回分の著作権料としてブージー&ホークスの代理店に支払った金額が2348万4000円だったことを考えると、これらの合計は少なくとも数十億円に上ると思われる。日独楽友協会の勝訴によって、これほどの国富が流出することが防げたかと思うと大変に誇らしい気持ちになる。

2012年5月15日火曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(5)


2003年2月28日、東京地方裁判所で判決が言い渡され、結果は日独楽友協会の全面勝訴であった。

主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。

(以下判決理由から抜粋・判決全文はこちら
戦時加算が認められるためには、昭和16年(1941年)12月7日の時点において、連合国又は連合国民が著作権者でなければならず、単に連合国又は連合国民が著作権の管理を委託されていたに過ぎない場合は含まれないものと解される。
リヒャルト・シュトラウスとフュルストナー社の契約書、第8条に記載されている「übertragen」という語は、ドイツ語では、「譲渡する」という意味と「委任する」という意味がある。しかし、上記のとおり、同契約書において、リヒャルト・シュトラウスは上演権を自分に留保していること(7条)、リヒャルト・シュトラウスは、アドルフ・フュルストナー社に対して、リヒャルト・シュトラウスの名前で上演権に関する契約を締結する権限を与えているが、アドルフ・フュルストナー社は、上演権の対価をリヒャルト・シュトラウスに代わって取り立てなければならないとされており、リヒャルト・シュトラウスは、このために、アドルフ・フュルストナー社に代理権を与えるとしていること(8条)、リヒャルト・シュトラウスに上演権の譲渡権及び管理権が留保されていること(8条)からすると、「übertragen」という語は、「譲渡する」ではなく「委任する」という意味に理解するのが相当である。なぜならば、上演権がアドルフ・フュルストナー社に譲渡されたのであれば、アドルフ・フュルストナー社は、当然に自ら上演権に関する契約を締結できるはずであって、上演権の対価をリヒャルト・シュトラウスに「代わって」取り立てたり、リヒャルト・シュトラウスから「代理権」を与えられたりすることはないはずであるし、リヒャルト・シュトラウスが自己に上演権(上演権の譲渡権及び管理権)を留保しているということもないはずであるから、このような契約は、譲渡契約ではなく管理委託契約というほかないからである。そうすると、本件楽曲については、昭和16年(1941年)12月7日の時点において、連合国民が著作権者であったとは認められないから、原告の戦時加算の主張は認められない。
したがって、本件楽曲については、既に著作権の保護期間を経過したものと認められる。
よって、原告の請求は、理由がないから、棄却することとし、主文のとおり判決する。

裁判所の判断の決め手となったのは1912年のリヒャルト・シュトラウスとフュルストナー社の契約書の第7,第8条である。特に「übertragen」という言葉が「譲渡」を意味するか「委任する」を意味するかが争われた。この契約書ではこの言葉が「委任」を意味することは明らかであったが、原告側の弁護士はこの言葉が「譲渡」を意味していると強弁したことが裁判官の心証を害したのではなかろうか。法律家の多くがドイツ語を学んだ経験があり、著作権事件を多く扱えばこの手の契約書も見慣れているはずであるから。
(以下はシュトラウスとフュルストナーとの契約書から第7条、第8条の部分)

  






 

2012年5月12日土曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(4)

やむを得ず、滞在中のブダペストから手書きの答弁書をファックスで東京地方裁判所に送る。日本ショット社は著作権の根拠となる書類を提出し、こちらは納得がいく説明をすれば著作権料は支払うという内容である。しかし、それにしても敗戦国の作曲家の作品に「戦時加算」が適用されるのはやはり納得がいかない。敗戦国の作曲家が連合国の出版社に著作権を売り渡せば「戦時加算」が適用されるものだろうか。しかも、今回の権利関係の移転はシュトラウスのあずかり知らないところで起こっている。ブージー&ホークス社がフュルストナー・リミテッドを買収したのは1943年のことだが、ドイツとイギリスは1939年9月1日から交戦状態にある。ドイツと同盟国であった日本におけるシュトラウスの著作権が1939年9月1日以降もイギリスの出版社に管理されていたとは考えられない。そのようなことがあればすぐに在日ドイツ帝国大使館から猛烈な抗議があったことだろう。ましてやこの時期にシュトラウスは「Japanische Festmusik」のような作品を作曲しているのである。もう一つの疑問ははたしてシュトラウスが演奏権を含めた著作権のすべてを出版社に売り渡したかどうかである。「ナクソス島のアリアドネ」は初稿が1912年に完成し、今日演奏される版に改作が行われたのが1916年のことである。このころシュトラウスはフュルストナー社以外の音楽出版社との関係が極度に悪化しており、その原因は音楽出版社が演奏権に関して出版とは別の権利を認めようとしなかったことにある。このことがベルリンの演劇評論家アルフレート・ケルの毒舌たっぷりの歌詞による1917年の歌曲集「Krämerspiegel(小商人の鏡)」の成立の動機となった。そうだとしたらシュトラウスが出版権以外の「演奏権」をこの時期に著作権とひとまとめにして出版者に売り渡したというのはいかにも不自然である。

第1回の口頭弁論は8月30日に行われたが、私は10月半ばまでハンガリーに滞在していくつかの演奏会を指揮することになっていたので答弁書を提出しただけで出廷しなかった。第2回目は帰国後の10月30日に弁論準備手続(法廷ではなく小さな部屋で裁判官を交えた3者で行われる)が行われたが、ショット社側の弁護士はこのときにやっとシュトラウスとフュルストナー社の契約書を提出し、裁判官から「今までこれを出さずに裁判を起こすのはおかしい」と叱責される一幕もあった。ショット社は1912年にシュトラウスとフュルストナー社の間に交わされた契約書の原文を提出したが、全文の翻訳は添付されていなかった。おそらく古いタイプ打ちの契約書を翻訳業者が読めなかったのだろう。この手の文章、特におんぼろのファックスからはき出されてくるかすれたタイプ打ちの手紙などを読むのは私の得意技である。この契約書はきわめて明解な、口語に近い現代ドイツ語でタイプされたもので、その内容は明らかに私にとって有利なものだった。すなわちその第7条と第8条では以下のように取り決められている。

§7この作品の上演権は、音楽の面からも、台本の面からも全面的になおかつあらゆる国々、あらゆる言語においてシュトラウス博士が保留する。(後略)
§8シュトラウス博士は前記の作品の販売と上演権の管理を作品全体かその一部かにかかわらず、この作品が法的保護を受ける期間内において、また第9項に別段の取り決めがない限り、アドルフ・フュルストナー社に委任する。それゆえアドルフ・フュルストナー社はシュトラウス博士の名において上演権についてそれぞれの劇場らと交渉し、上演権に関する契約を締結し、彼のために上演権料を徴収することとする。(後略)

つまりシュトラウスは上演権に至るまでのすべての権利をフュルストナー社に売り渡してはおらず、上演権の管理を同社に任せていたにすぎないのである。
原告側は反論で『同契約8条に使用されている「ubertragen」(下線は筆者)(注:本当はübertragen)は一般に「譲渡」を意味する単語であり(甲14),被告の主張するような「『作曲家の名において』何らかの役割を任せる」という意味に曲解できるものではない』などとこじつけようとするが、こちらはドイツ語の専門家である。契約書のこの部分の意図するところは明白である。

また、原告が同時に証拠として提出したドイツ・ショット社の代表、ペーター・ハンザー=シュトレッカー氏の書簡には『ドイツ語の"Urheberrecht"は英語の"Copyright"とは異なり(中略)日本の「著作者人格権」という名のもとに言及され、出版社に権利が移転されることはありません』『ここでいう譲渡とは、日本法の下では、この作品のCopyright(著作権)をフュルストナーに譲渡した、ということと同じ意味を持ちます』と記されている。これにより原告の権利がそもそも出版・販売権のみに制約されていることが却って明らかになっている。さらにこの作品のスコアのはじめのページにも“Copyright”と記されているだけで、“All rights reserverd”とか“Auffhürungsrecht vorbehalten”といった記載は見られない。
さらに原告は『また,原告は日本におけるJASRACに限らず,その管理する地域の諸外国の音楽著作権管理団体に本件楽曲の「著作権者」として登録されており,世界的にも原告が本件楽曲の著作権者であることは周知の事実となっている。現に,新日本交響楽団(注:実際は新日本フィルハーモニー管弦楽団)は本件楽曲の演奏に際し,特に原告から要求を受けなくても当然のように上演の許諾を得る手続をとっている』などと主張する。しかし、この件は後になって担当者が事務局長の許可を得ずに独断で許諾申請を行っていたことが発覚する。

さらに不自然で矛盾しているのが以下の一文である。
(前略)『従って,本件楽曲は,作曲したのはドイツ国民であるリヒャルト・シュトラウスであるが,第2次世界大戦中に日本でその上演をするためには,対戦国である英国の法人である原告との間で上演権の交渉をし,許可を得なければならず,作曲家であるリヒャルト・シュトラウス本人を含め,他に許諾をする権利を有するものは日本国内はもちろん,世界中のどこにもいなかった。従って,2次世界大戦中に本件楽曲が許諾を受けて日本で上演されたとは考えられず,本件楽曲の著作権は保護されていなかったのであるから,実質的にも戦時加算を受けることはなんら不合理なことではない。
被告は,著作権料が旧枢軸国のドイツ国民であるリヒャルト・シュトラウスないしその遺族に支払われることを指摘し,本件楽曲の著作権が戦時加算の対象となることに疑義を唱えている。しかし,前述のとおり第2次世界大戦中に日本国内で本件楽曲の上演について許諾を与えることができたのは対戦国の英国法人である原告のみであり,その結果第2次世界大戦中に日本では本件楽曲の著作権は保護されていなかったのである。従って,日本国内において本件楽曲が上演された場合にその上演料がリヒャルト・シュトラウスないしその遺族に支払われる可能性も,実際に支払われた事実もないのであるから,被告の主張はその前提において失当である』。???

なぜ、演奏されなかった楽曲の著作権が「保護されなかった」のだろうか。許諾を受けずに演奏され続けたのなら「保護されなかった」とも言えようが。
その他にも原告の記述には当初より不正確な記述や誤記、誤訳、誤読が多く(「リチャード・シュトラウス」、「新日本交響楽団」など)原告の語学力や音楽、歴史に関する知識の無さ、商取引上の常識の欠如からしてもその主張は到底信用にあたるとは思えないのである。これでは、原告の送付してくる書類を見たり、原告の手法を見て、原告は外国語や法律の条文を自らに都合の良いように勝手に解釈して、これを元に詐欺、恐喝行為を行っている会社と思われても止むを得まい。

また原告は「しかし、戦時加算の趣旨は、第2次世界大戦に伴い著作権の保護が受けられなかった著作物について、その保護期間を延長することにある」と述べている。まさに原告が述べているように、第2次大戦中我が国でこの作品を(許諾を申請するか否か以前に)演奏しようと試みた者はいなかったが、「許諾を与えるべき著作権者が交戦国の出版社だったために許諾を申請できるような状況ではなく、その為に頻繁に上演が断念されて、本来得られるべき利益が失われた」(遺失利益が存在した)のではない。むしろ、リヒャルト・シュトラウスは同盟国ドイツを代表する作曲家だったため、1940年には皇紀2600年を祝って「Japanische Festmusik」の様な作品も初演されているように、我が国でも演奏されることが多かったのであり、当時の社会情勢からして、もし我が国で何者かが「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しようと考えたならば、敵国の出版社の許諾など受けようとは決して考えず、同盟国のドイツからパート譜を調達したであろう。この作品が当時演奏されなかったのは社会情勢や当時の我が国の演奏家の技術的水準の問題であったと考えられる。従って原告には当初より遺失利益は存在せず、仮に上演権の管理を著作権とは分離した独自の権利として原告が管理していたとしても、そのことは戦時加算の対象とはなり得ない。さらに、著作者である作曲家が原告の権利を実際に承認したのは終戦後の1946年1月であることも原告の提出した証拠によって裏付けられている。従って仮に遺失利益が存在してもそれは作曲家自身であって原告ではない。

(続く)

2012年5月10日木曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(3)

知人の弁護士のアドヴァイスは残念ながらがっかりするものであった。「杉山さん、それは払っちゃった方がいいよ」と言うのである。彼が言うには「費用対効果」の問題として係争金額はたかだか100万円。裁判になればお互い弁護士費用だけで50万円は下らないので、和解すると言って相手に20万円ぐらい払えば納得するだろうと言うのだ。それではこんなお粗末な書類で大金を請求してきた相手の主張を認めることになってしまう。「先生には相談だけお願いして、法廷には私が行くのではだめでしょうか」と聞くと「そんなに甘くはない。それで勝てるなら弁護士はいらない」と言うので、生返事をして弁護士の元を辞する。なあに、まだ裁判になったわけではない。ゆっくり考えればよい。私は過去にドイツの合唱団のツアーの立替金を巡って招聘元のマネージメントと争ったり、解雇事件で大学と争ったりといくつかの裁判の経験がある。4勝1敗だがそのうち1件は弁護士を立てずに法廷に立って勝訴している。今回の件は根拠も示さないまま、まことに高圧的な請求で納得がいかないのに1円だって払うのは腹立たしい。仮に裁判になって負けてもはじめから請求があった金額を払わなくてはならないだけ。そのためにわざわざ弁護士を雇う必要はない。私は弁護士を頼まずに自ら書面を書き、法廷に立つ覚悟を決めた。

2002年6月29日に新国立劇場での日独楽友協会「ナクソス島のアリアドネ」公演は成功裏に終わる。若手の歌手たちの多くは初めて立った新国立劇場の舞台で精一杯歌い、おおむね700名、会場の8割ほどをうめた入場者からは終演後7分間にもわたる拍手が鳴り響いた。残念ながらやはり無名の小団体が行ったこの公演を取り上げたマスコミはなかった。
公演後日本ショット社に同じく「警告書」を送りつける。権利を証明する書類を示さずに高圧的な態度で金銭を要求するのは恐喝と同じだ。戦時加算について根拠があるなら示してほしい、という内容である。

2002年7月9日、私は例年通りドイツ・オーストリアでの講習会と、2000年から客演指揮者となっていたハンガリーでの演奏会のため日本を離れた。その後、7月22日に東京地方裁判所から日独楽友協会あてに訴状が送達される。

原告、日本ショット社の請求金額は88万615円であった。内訳は日本ショット社側が勝手に算出した入場料金の7%、35万1820円、パート譜使用料22万8795円、弁護士費用(我が国の民事裁判で裁判を起こしておいて相手側に弁護士費用を請求するのは稀であると思われる)30万円である。通常訴状を準備して提訴するのにはもう少し時間がかかるので、まあ訴状がきても帰国後に答弁書を書けばいいと思っていたが少々当てが外れた。しかし相手方の書証(裁判の書面に添付する証拠書類のこと)を見ると、私に送りつけてきたのと同じ程度のものしか付いていない。裁判所に提出するにはいかにもお粗末で、準備が整わないうちに拙速に訴状を用意したらしいことがわかる。

(続く)

2012年5月9日水曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(2)


さて、リヒャルト・シュトラウスはドイツの作曲家であり、1949年9月8日に死亡している。ドイツは連合国ではなく、シュトラウスは連合国民ではない。従って著作権について定めたベルヌ条約によって日本においてはその著作権は1999年末を持って終了しているはずである。それではなぜ、日本ショット社は2002年になってこのような請求をしてきたのであろうか。何か根拠があるなら是非説明してほしいと問い合わせると、以下のような回答が返ってきた。(傍点は筆者、前置きなど一部を省略)

日独楽友協会
杉山直樹様
「ナクソス島のアリアドネ」を含むリヒャルト・シュトラウスの多くの作品は、ドイツの出版社アドルフ・フェルストナーによって最初の出版がおこなわれております。しかし、フェルストナー社の所有者はユダヤ人であったため、ナチスの台頭によリ1938年に余儀なく英国に亡命・英国法人を設立して、ドイツ、イタリア・ポルトガル・ソ連、ダンチッヒ自由都市以外の地域を除く全世界に対する著作権を保有しました。プージー&ホークス社は1943年にフェルストナーの英国法人のすべてを買収しました。「ナクソス島のアリアドネ」をはじめとするフェルストナー作品の日本地域における著作権者が1938年に設立された英国法人であることから、「連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律」第2条第2項のにより、これらの作品等は、著作権の保護期間に対して戦時加算を受けています。
また、「ナクソス島のアリアドネ」の演奏用の楽譜は、日本国内において著作権が保護されている以上、その持ち込みは禁止されています.したがって、もし日本国内に、私どもがレンタル楽譜として管理している以外の楽譜が存在するとすれば、それは不法複製物であることは明白です。したがいまして、すでに連絡いたしました条件による事前の許諾なしに上演等を強行される場合には、法的な手段による公演の差し止め、違法複製物の没収といったことにならざるを得ないことをご承知ください。

上記につきましては、日本地域の著作権看であるプージー&ホークス社の確認・了承を得たものであり、さらにドイツのフェルストナー社は現在、当社の親会社であるショット社が所有していることを、申し添えます。

なお、貴協会のホームページによれば、20001224日かつしかシンフォニーホールでカール・オルフ作曲「カルミナ・プラーナ」を公演されたという記録が掲載されていますが、この演奏のための楽譜も不法複製物の疑いがあり、改めておうかがいするつもりです。
日本ショット株式会社
代表取締役 池藤ナナ子

こちらは著作権についての説明を求めただけなのに、「法的な手段による公演の差し止め、違法複製物の没収」などと、はじめから穏やかではない。しかも、過去の公演についてまで「この演奏のための楽譜も不法複製物の疑いがあり」などと難癖をつけてきた。カルミナ・ブラーナは演奏用のアレンジがドイツ・ショット社から複数出版されており、これを購入して演奏したのに失礼極まりない。それに著作権を主張する割には「フェルストナー」(実際はFürstner「フュルストナー」)などと誤記があってお粗末である。しかし相手はドイツを代表する大出版社の日本子会社であり、英国最大の音楽出版社であるブージー&ホークスの代理店である。

早速、高圧的な請求に対して抗議するとともに、契約書などの権利を証明する書類を公開するように要求した。同時に念のため、弁護士と、音楽出版に詳しい知人に相談する。すると二人とも口をそろえて「ああいう人たちはヤクザと同じですからね」といわれたのには驚いた。
1週間後、ショット社から届いたブージー&ホークスの「著作権を証明する書類」とは次のようなものであった。
・日本音楽著作権協会のホームページのコピー
・ブージー&ホークス社の出版カタログのコピー
・ブージー&ホークス本社の取締役が日本ショット社におくった「ナクソス島のアリアドネの著作権は間違いなく当社にある」と書かれた手紙のコピー
・1987年にリヒャルト・シュトラウス(作曲家の孫)と上記取締役の間に交わされた出版権の更新に合意する文書
いずれも、リヒャルト・シュトラウスの作品が戦時加算の対象となることを証明するようなものではなかった。そこで、引き続き証拠書類を請求しながら念のため楽譜については利用の申請をしておくこととなった。但し楽譜の状態がわからないので(書き込みがたくさんあったり、ぼろぼろで使いにくいものが時々あるので)事前の閲覧を求める。証拠もないままに高額なレンタル料を払ってしまっては、後で返してもらうのが大変である。ちなみにアメリカから購入したパート譜のセットは850ドルだったが、日本ショット社のレンタル譜は演奏一回につき22万8795円である。

公演1週間前になっても十分な証拠書類を示さないまま、日本ショット社は「楽譜は前払いで、事前の閲覧は認めない」と言ってきた。それでは予定通り、購入したパート譜で演奏するほかない。
ただでさえ忙しい、オペラの公演の直前、しかも初めての新国立劇場での上演、作品は難曲「ナクソス島のアリアドネ」である。その時期にこのようなよけいな問題が発生し、しかも代表であることから指揮者の私が対応しなくてはならない事態となったのは、大変なストレスである。再び公演準備に集中しようと取りかかったところ、公演前々日に「警告書」が郵送されてくる。これは日独楽友協会だけでなく、新国立劇場運営財団にも同じものが送付され「レンタル譜を使わず、上演許諾を受けなければ法的措置をとる」「会場を貸した新国立劇場も場合によっては責任を追及する」といった内容となっていた。最近はやりの架空請求書を送りつけてくる詐欺師とそっくりの文言である。新国立劇場には早速事態の経緯を説明する文書を提出して理解を求めると同時に、公演直前であるのに急遽弁護士と連絡を取り、練習の合間に相談を受ける。ストレスで卒倒しそうになる。

(続く)

京都市交響楽団(12)         被告の移送申立に対する意見書

本来、被告の移送申立書、答弁書を先に掲載するべきですが、現在スキャニングができませんので、そちらはでき次第アップすることにします(全文を写すのは非常に大変ですので)。

平成24年(ワ)第2981号
損害賠償請求事件
原告 杉山直樹
被告 京都市ほか6名

意見書

(2012)平成24年5月10日

東京地方裁判所民事第1部合2係 御中

原   告   杉 山 直 樹

標記事件について,被告の平成20年2月1日付移送申立に対する原告の意見は,以下のとおりです。

第1 趣旨
本件訴訟の京都地方裁判所への移送は認められない。
第2 理由
裁判の管轄について
(1)被告の主張
(ア)被告は本件不法行為が行われた場所が退職の強要その他退職の手続きに関する行為が行われた京都市内であり、その裁判管轄は京都地方裁判所であると 主張する。
(イ)また被告広上および被告荒井は被告京都市の人事に関する権限を何ら有しないことから、本件不法行為は専ら被告平竹および被告並川によって行われた と述べている。
(ウ)さらに国家賠償法第1条において「公権力の行使に当たる公務員の職務行為に基づく損害については、国又は公共団体が賠償の責に任じ、職務の執行に 当たった公務員は、行政機関としての地位においても、個人としても、被害者に対しその責任を負担するものではない」とされていることから原告の請 求は被告京都市に対して成されるべきであるとしている。
(2)原告の主張
しかしながら、上述の3点こそがまさに本件裁判の争点であり、被告の主張はそもそも自らの主張がすべて正当であるという尊大な錯誤に基づいた物で ある。
(ア)原告の立場は「そもそも京都市の人事に関する権限を何ら有しないはずの被告広上、被告荒井が被告平竹及び被告並川に対して執拗な干渉を行って原告 を解雇させた」行為こそが本件不法行為の第一原因である、とするものである。従って本件不法行為は退職の強要その他退職の手続きに関する行為のみではなく、その行為が行われたのが主に京都市内であったのか、原告が聞き及んでいる金沢市内での会見が被告平竹および被告並川に最終的な決断をさせたのか、あるいは電話や電子メールによって行われたのかは現時点では決定づけられない。従って不法行為が行われたのが京都市内であるという断定は被告の強弁である。
(イ)上記2―(ア)の通り原告は被告広上及び被告荒井は民法第719条第1項 における共同不法行為者であると同時に第2項の不法行為を教唆した者にあ たると考える。従って被告広上及び被告荒井の住所地である東京地方裁判所がその管轄にあたると考えられる。
(ウ)さらに被告平竹および被告並川の行為がすべて「公権力の行使に当たる公務 員の職務行為」にあたるかどうかは甚だ疑問である。なるほど退職の強要その他退職の手続きに関わる部分は職務中の行為であった様に解釈することもできる。しかし、業務に必要なファイルをデスクから持ち去ったり、さまざまなパワーハラスメント行為は「職務行為」とは言い難く、執拗な退職勧奨と対を成して被告らの業務外の恣意的行為であったと考えられる。従って国 家賠償法第1条の適用を受けるとは思われず民法第709条の不法行為にあ たると考えられる。京都市においては刑事罰の対象となる様な犯罪さえ軽微 な懲戒の対象としかならないことが常態化し、被告の京都市長、門川大作が最高裁判所で敗訴して支払い命令を受けた損害賠償金を支払わないなど、国家賠償法第1条を逆手に取った公務員の違法行為、不法行為が野放しにされているのである。従って本件不法行為の責任は被告平竹および被告並川個人 にあるのであって原告の請求は被告京都市にのみ為されるべきであるから、その管轄は京都地方裁判所であるとの主張は失当である。
(エ)上記により、本件裁判は民事訴訟法第16条による移送の適用を受けない。
裁判の衡平について
(1)被告の主張
(ア)前述の通り被告は被告広上および被告荒井は被告京都市の人事に関する権限 を何ら有しないことから、本件不法行為は専ら被告平竹及び被告並川によって行われ、当該行為が存在したとしてこれが不法行為に該当するか否かが直 接的な争点とされるべきであると述べている。
(イ)従って被告広上及び被告荒井の証人尋問をする必要は認められず、尋問の可能性のある被告平竹および被告並川の住所地は京都市内にあることからその出頭の難易等からすれば京都地方裁判所をその管轄とするのが衡平であると主張する。
(ウ)また原告本人を尋問することも考えられるが、尋問する者の数、普通裁判籍が被告の住所地とすること等を考慮すると、京都地方裁判所をその裁判管轄とするのが当事者間の衡平にかなうものと解される、としている。
(2)原告の主張
(ア)本件不法行為が専ら被告平竹及び被告並川によって行われたという主張については争う。従ってこの点が本件移送の理由となるとは考えられない。
(イ)原告は被告広上および被告荒井に対する証人尋問は、本件不法行為が主に誰によって行われたかという事実が裁判の経過と共にいかなる判定をされようとも必要であると考える。また被告側は被告平竹および被告並川については尋問の可能性があるとしているが、これは必ずしも本人が出廷する蓋然性が 高いことを示していない。
(ウ)民事訴訟法第5条の特別裁判籍によれば本件裁判は東京地方裁判所、京都地方裁判所の他、さいたま地方裁判所で行うこともできたのであるが、原告は様々な証人の出廷の可能性などを考え、敢えて東京地方裁判所に提訴したのである。
被告は「原告本人を尋問することも考えられるが」と述べているが、原告は本人訴訟を行っているので口頭弁論や弁論準備、その他和解手続きなどがあればその都度京都市まで出向かなくなることは明らかである。これに対して被告らは代理人弁護士を依頼しており、また被告ら全員がすべての口頭弁論に出廷することは考えられないから、ただでさえ不当に退職を強要され、充分な資力を持たない原告と、極めて恵まれた定収があり、さらには「みやこ互助会」なる組織から裁判費用の補助を受けることまでできる被告の状況を 比べた場合、原告が極めて不利な立場に立たされるのは明らかである。よって、どちらの裁判所が管轄となるのが衡平であるかは自明である。
(エ)被告は答弁書の10頁で、原告が指揮者である訴外下野氏、同湯浅氏、同現田氏に「失礼な態度を取った」り「批判した」ため各氏が「憤慨した」と、虚偽の事実を述べている他、原告の「非行」を捏造している。その為原告は事実を証明するため多数の関係者の陳述を必要とすることになる事が考えられるが、関係者の多くは東京、若しくは東京近郊に住所地があるため、京都地方裁判所の管轄となれば原告が負担しなくてはならない交通費などは膨大な物となると考えられる。また、関係者の日程を調整するのはほぼ不可能に近い物と考えられる。
(オ)原告は平成24年1月5日に被告門川並びに被告平竹に書状を送り(甲5号証)、原告を解嘱したのは被告広上および被告荒井の執拗な要求による物であったことを認め、原告に対するパワーハラスメント行為や失礼な態度に対して謝罪するのであれば京都市、及び京都市交響楽団関係者に対しては責任を問わず、提訴もしないことを申し出たが、両名は何の回答もしなかったので原告は京都 市交響楽団関係者も被告に加えざるを得なかった。反して言えば、もし被告 京都市との間に何らかの合意が成立すれば、本件裁判は被告広上および被告 荒井とだけ争われることになる可能性も残されている。そうなった場合本件 裁判が京都地方裁判所で行われることには何の合理性もない。
(カ)上記の理由から本件裁判を京都地方裁判所に移送するという被告の申立は、 民事訴訟法第17条の「訴訟の著しい遅滞を避け、又は当事者間の衡平を図る」という目的と悉く対立し、憲法第32条によって認められた原告の裁判 を受ける権利を侵害し、原告に膨大な出費を強いて裁判の維持を困難にし、 裁判を故意に長引かせるための手段であると判断できる。

京都市交響楽団(11)         被告の答弁書と移送申立について

最初に、多くの方から励ましのメールを頂いておりますことに厚く御礼申し上げます。
今後、長く厳しい戦いになる事と思いますがご支援を頂ければと思います。

また、反対意見の方も匿名でも結構ですから是非ブログに書き込み頂ければと思います。
但し極端に品のない発言や、根拠なく個人を中傷する様な書き込みは消去します。
私に対する批判があれば、可能な限り直接お答えしたいと思います。
お返事が遅くなることがあるのはお許し下さい。

今年(2012、平成24年)4月下旬に被告から東京地方裁判所に対し、裁判を京都地方裁判所に移送するようにとの申立書が出ました。申立書の全文はJPEGないしPDFをブログに添付する方法がわかったら追って添付しますが(自宅にスキャナがないので,しばらくお待ち下さい)被告らの申立は明らかに本人訴訟で行っている原告に多くの負担をかけ、裁判を妨害しようとする物です。

これまで私は、起こったことをなるべく時系列に記載し、多くの方に知って頂きたいと考えていましたがその中で、一部控えてきたことがあります。京都市交響楽団で起こってきた様々な犯罪や違法行為、その関係者について記述することです。これは今回の裁判と直接関係ないこと、すでにほとぼりの冷めた事件について記述することは何の意味もなく、京都市交響楽団関係者や音楽ファンの皆さんにも不快な思いをさせる事になると考えたからです。

しかし被告答弁書の内容があまりに事実とかけ離れた悪意ある捏造に満ちていること、また報道機関が今回の裁判についてほとんど取り上げない中、このブログだけが世間に事実を知って頂く唯一の発言場所である以上、今まで京都市交響楽団関係者に実際どのような非行が
あり、それらの人がどういう処分を受けているか、私の場合はどうであるかを広く知って頂く必要があると考えます。

また、これらの事実を発表しておく方が私の身の安全にもつながると思います。よって、ご不快な感情を持たれる方がいるとしても、今後は徐々にこれらのことについてここに書く足していこうと思います。


京都市交響楽団(10)         広上淳一、京都市らに対する裁判の訴状全文

以下、訴状の全文(原文ママ)です。




訴   状

平成24年2月2日



東京地方裁判所 御中

〒330-○○○○ 埼玉県さいたま市○○○○○○○○○○○
原     告   杉 山 直 樹
電 話 ○○○ー○○○○○○○○○○○
〒○○○-○○○○ 東京都○○○○○○○○○○○
            被    告 広 上 淳 一
            〒○○○-○○○○ 東京都○○○○○○○○○○○
株式会社AMATI
            被    告  荒 井 雄 司
〒○○○-○○○○ 京都市○○○○○○○○○○○
            被    告    京 都 市      
            〒○○○-○○○○  京都市○○○○○○○○○○○
            電 話 075-○○○-○○○○ ファックス 075-○○○-         ○○○○
            被    告 門 川 大 作
            被    告 平 竹 耕 三
            被    告 並 川 哲 男
被    告 新 井   浄
損害賠償請求事件
訴訟物の価額  金2000万円
貼用印紙額   金8万円

第1 請求の趣旨
1 被告は,原告に対し,金2000万円及びこれに対する平成21年6月30日 から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
を求める。
第2 請求の原因
1 当事者
(1)原告は,平成21年4月1日京都市に採用され,京都市音楽芸術文化振興財        団に所属して,同財団が運営する京都市交響楽団にサブマネージャーとして平 成21年6月30日まで勤務した。職務内容は,京都市交響楽団の公演企画運 営,営業統括,音楽スタッフ業務統括指揮監督などである。
(2)被告広上はフリーの指揮者であり,京都市交響楽団を運営する音楽芸術文化 振興 財団とは所属するマネージメントを通して,年に数回主要な公演を指揮す る常任指揮者としての契約を結んでいる。
(3)被告荒井は被告広上のマネージャーであり,事件当時は訴外梶本音楽事務所 に所属して被告広上ほか,クラシック音楽の指揮者,演奏家のマネージメント 業務を行っていた。
(4)被告京都市は市民文化の形成,青少年の情操を高めるために,昭和31年4 月京都市交響楽団を設立したが,平成21年4月にその運営を京都コンサー トホール内にある京都市音楽芸術文化振興財団に移管した。
被告門川は京都市長であり、京都市交響楽団楽団長である。

(5)被告平竹,並川の両名は京都市職員であり京都市交響楽団を運営する京都市 音楽芸術文化振興財団に出向して各々副楽団長,シニアマネージャーを務めて いる。
2 原告の京都市交響楽団への採用
(1)原告は,フリーの指揮者,指揮教育者として活動していたが,平成21年1 月下旬に京都市交響楽団の被告,新井浄音楽主幹から京都市交響楽団でマネー ジャーとして働く意志はないかと打診を受け,同年2月に京都市を訪れて被告 平竹,当時の事務局長,係長の面接を受け,2月末日に採用内定通知を受け た。 そこで原告は当初予定していた数年間にわたる当面の指揮活動,指揮教育  活動を相当の違約金を支払ってキャンセルし,京都市内に住居を手配して原告 本来の居住地であるさいたま市のほか活動の拠点となっていたオーストリア ウィーンからも荷物を運び,3月下旬京都市内にマンションを借りて、4月1 日に京都市に非常勤嘱託職員として採用され,即座に京都市音楽文化振興財団 に出向を 命じられて,京都市交響楽団サブマネージャーに任ぜられた。
しかし,原告が着任してみると職場内に原告の着任以前からのさまざまな人 間関係のこじれがあり,特に被告新井と折り合いの悪い音楽スタッフが職務上 必要な連絡を新井の紹介で着任した原告に行わなかったり,上司に無断で外部 の指揮者に出演日程の交渉を行うなど,組織が機能しておらず,予算の作成や 財務,出納の状況が非常に不明瞭で,過去の経営に関するバランスシートなど の資料が整備されていないことなどがわかった。
(2)被告広上は,本来京都市音楽芸術文化振興財団と常任指揮者契約を結んで出 演しているに過ぎず,京都市音楽芸術文化振興財団および京都市交響楽団の人 事や運営など,音楽面にかかわらない問題については一切の発言権を持たない が,京都市交響楽団が平成21年度から財団に移管される事,同じフリーの指 揮者であった原告が,マネージャーとして新たに採用される事など,いくつか の点において京都市,または財団から事前に説明を受けていなかった事に不満
を持ち「杉山をやめさせないなら常任指揮者を降りる」などと京都市および京 都市音楽芸術文化振興財団の幹部に対して執拗に働きかけ,平成21年5月末 に京都市は原告に対して解雇辞令をもって辞職を迫るに至った。
(3)被告荒井は,京都市交響楽団の指揮者やソリストをほぼ独占的に供給してき た経緯から,音楽に専門的知識や幅広いコネクションを持つ原告が京都市交響 楽団に赴任することによって,自らの独占的な立場が脅かされることを恐れて 被告広上と共謀し,京都市幹部を旅行先の金沢に呼び出すなどして原告を解雇 するよう迫った。
3 京都市による解雇辞令の交付と,原告の辞職
被告広上,及び荒井の要求により,平成21年5月下旬ごろ被告平竹、並川の 両名は原告を京都市交響楽団練習場会議室に呼び出し、突然「杉山さんはス タッフをまとめられていない,指揮者とコミュニケーションができないので雇 用関係を解消したい」などと告げた,特に被告並川からは「これは京都市の決 定なのでもう変わらない」「早く辞表を書いてほしい,京都市は何の補償もす るつもりはない」「おとなしくやめた方が杉山さんの経歴にも傷がつかない」 などと,脅迫的な言葉で執拗に辞表を出すことを迫り,原告は大きな精神的 苦痛を受けて,ひどい頭痛,肩こり,不眠などの心因性の障害を起こすように なった。
京都市は平成21年5月末に原告に対して6月15日の日付けの記された解雇辞令 を交付した。原告は「解雇は不当であり,裁判を持って争う」と主張したが, 被告新井らが「解雇されれば人生の汚点となり,音楽業界で仕事をすることは できなくなる」「おとなしく辞表を書けば責任を持って次の仕事を世話する」 などと1ヶ月近くにわたって執拗に退職勧奨したこと,業務中スタッフに楽器 をぶつけられる,業務遂行に必要なファイルをデスクから持ち去られる,重要 な来客や会議があるのに知らされないなど様々なパワーハラスメントが続け, 平成21年6月15日には辞表を書かざるを得なくなった。

4 損 害
原告は京都市交響楽団に採用されるにあたり,基本年俸約700万円,当時48歳だった原告は定年まで12年間勤務できると説明を受けていた。ところが 実際には3ヶ月足らずのうちに退職を余儀なくされ,金銭的に大きな損害を 被っただけでなく,精神的にも耐え難い苦痛を受けざるを得なかった。12年 間に支払われるべき給与の合計は,昇給等がなかったとしても8400万円で ある。しかし現実には住居費その他様々な経費がかかるので,実際の遺失利益 は本来概ね4000万円であったと考えられる。しかし、原告は実際には平成 21年5月31日までの2ヶ月間しか勤務しておらず、上記のうち被告のみの責任 に帰すべき金額は判定しがたい。
被告広上らは京都市に対して原告を解雇するよう働きかけ,そのことが唯一の 原因となって原告は辞職を強要された。この件に関しては被告京都市、被告門 川,平竹、並川、新井の側にも,相当の責任がある。原告は被告新井の申し出 により,京都市交響楽団に赴任することになったが決定まで僅か2ヶ月あまり であったことから赴任に当たってその後数年間に予定されていた仕事を断って いる。また京都市交響楽団在任中に原告が自らを名乗って出演を依頼したり、 交渉をした音楽家多数に対し、原告が解雇された後被告らは出演を拒否するな ど不利益な扱いをし,この事が原告のその後の業務に大きな悪影響を及ぼして いる。
以上により被告らによって原告の被った損害は金2000万円を下回ることはない。

5 結 語
よって原告は被告らに対して損害賠償金として金2000万円と,原告が退職を余儀なくされた平成21年6月30日から支払い済みまでの民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

以 上

証 拠 方 法
追って立証する。 

添 付 書 類
1 訴状副本           7通
2 甲1号証 人事異動通知書 1から5
3 甲2号証 自宅待機命令
4 甲3号証 被告京都市が原告に要求した退職願のひな形
5 甲4号証 平成21年6月15日付けの解雇予告手当の計算書


以下は訴状の訂正申立書です。

平成24年(ワ)第2981号
損害賠償請求事件
原告 杉山直樹
被告 京都市ほか6名

訴状訂正申立書

(2012)平成24年5月10日

東京地方裁判所民事第1部合2係 御中

原   告   杉 山 直 樹

頭書の事件につき、原告は次のとおり訴状を訂正いたします。

第1 被告の表示の訂正

訴状1頁には〒○○○-○○○○  京都市○○○○○○○○○○○ 被 告京都市とあるが〒○○○-○○○○  京都市○○○○○○○○○○○ 被告京都市、代表 京都市長門川大作と訂正する。


第2 請求の趣旨の訂正

訴状2頁には
1  被告は,原告に対し,金2000万円及びこれに対する平成21年6月30 日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

とあるが、下記の通り訂正する。
被告らは,原告に対し連帯して金2000万円及びこれに対する平成21年 6月30日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
添 付 書 類
1 訴状訂正申立書副本 7通

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(1)

今年で10年になる事からオペラ「ナクソス島のアリアドネ」上演とその後の裁判の顛末についてブログに発表しようと思う。文章は2005年にR.シュトラウス協会年誌に掲載された物と同じ。

日独楽友協会が新国立劇場中劇場での「ナクソス島のアリアドネ」上演を正式に決定したのは2001年の秋のことである。この作品を上演するのなら会場は是非新国立劇場中劇場でと考えていたのだが、会場との日程調整に手間どってしまい、日程が確定したのは公演のわずか8ヶ月ほど前のことであった。

日独楽友協会1990年から91年にかけて私が中心となり、恩師のクルト・レーデルを音楽監督に迎えて設立した団体である。当初アマチュア会員がほとんどで、日独合同演奏など国際親善的な活動を行っていたが、その後若手のフリー演奏家が次々と入会して主要メンバーとなり、1996年からプロフェッショナルなメンバーだけの演奏を行うようになる。法人化していない小さな団体であるが、ドイツやオーストリアで学んだ音楽家が多いので演奏にはこだわりがある。家元制度的で派閥や上下関係が厳しい日本の音楽界では、留学中に少々不義理をすると人間関係が途絶えてしまい、演奏に磨きをかけて帰国しても、演奏の機会のない音楽家が沢山いる。そうした若い音楽家による「シンフォニッシェ・アカデミー」が、次第に合唱との共演、オペラ、オペレッタ、バレエなどの公演を行うことになり、東京以外での演奏の機会も増えてきた。同じような境遇の、才能があっても演奏の機会に恵まれない歌手たちに、派閥や上下関係にとらわれずに舞台に立つ機会を持ってもらおうと、行うこととなったオペラの自主公演第1段が新国立劇場中劇場でのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」である。

日独楽友協会が初めてのオペラ公演の演目に「ナクソス島のアリアドネ」を選んだのには訳がある。序幕に描かれた音楽の現場での崇高な理想と、残酷な現実の相克は、程度の差こそあれ、時代を超えてあらゆる芸術の現場で繰り返されてきた悲喜劇である。「メセナ」を自認する成金の侯爵は、最後まで舞台に姿を現す事はないが、彼の芸術への無知と無理解は、権威主義の権化である侍従長によって舞台上の出演者達に伝えられる。バブル華やかなりし頃人口に膾炙したこの「メセナ」という言葉は、本来損得に関係なく才能ある芸術家を育成しようとする篤志家を指す言葉であるが、日本における「メセナ」はまさに芸術に対する無知と無理解のオンパレードであった。バブル華やかなりし頃、企業も行政も後の批判を恐れて、自らの目や耳で芸術を評価しようとせず、コンクールでの上位入賞者や有名な評論家の推薦がある特定のアーチストだけが支援の対象となり、出演依頼が集中し、広告代理店も加わって多額のスポンサー料が支払われた。特に海外の有名アーチストが目白押しで来日した事は、地道な活動を続けていこうとしていた若手演奏家とって致命的であった。かくして、「バブル」と「メセナ」はかつて中国で吹き荒れた文化大革命の嵐のように一つのジェネレーションをこの国の歴史から抹殺しようとしている。何と、この作品の影の主人公であるこの「町人貴族」の侯爵と二重写しになる事だろうか。

私は1987年に帰国した後5年間、バブル最盛期の日本で、本来学んだ演奏の仕事に就くことができず、マネージャーとして音楽の現場を舞台裏から見てきた。8ヶ月あまりではあるが企業メセナ協議会の事務局にも在籍した私は、日本における芸術の閉塞状況を作り出している芸術への無知と無理解に何とか一石を投じたかったのである。

さて、前置きが長くなったが、2002年に入ってキャストも決まり、音楽稽古が順調に進み始めた。オーケストラのパート譜はアメリカからリプリント版を取り寄せることとし、ピアノボーカルはドイツから20冊を取り寄せた。ドイツ在住のキャストも帰国し、いよいよ立ち稽古が始まった5月はじめごろ、ドイツの出版社ショット社の日本子会社である日本ショット社から突然電話がかかってきた。(ドイツ・ショット社の日本子会社が日本ショット社でありその日本ショット社が英国のブージー&ホークスの代理店として裁判の原告となっているので話がややこしいが)曰く、「著作権の許諾申請がなされていない、レンタル譜の利用申請も受けていない。この作品の著作権は当社が管理しているので至急著作権使用の許諾申請とレンタル譜の利用申し込みをしてほしい」。寝耳に水の請求である。私は著作権の専門家ではないが、少なくともマネージャーとしてクラシックの音楽現場で5年以上の経験があり、音楽作品の著作権が一部の例外を除いて作曲家の死後50年で消滅することは知っている。一部の例外とは所謂「戦時加算」というもので、第2次世界大戦の終了後、サンフランシスコ平和条約によって敗戦国である日本に押しつけられた不平等条約である「連合国および連合国民の著作権の特例に関する法律」(1952年8月制定)が有効となる作曲家の作品である。この法律の根拠は、太平洋戦争の勃発した1941年12月7日(日本時間では12月8日となるがハワイ時間では12月7日であった)からサンフランシスコ平和条約の発効する1952年4月28日までの間日本において連合国の著作権が保護されていなかった(?)ことから、本来消滅するはずであった著作権の保護期間をこの約10年半の分延長するというものである。

第1次世界大戦の当時、回転するプロペラの間から機関銃の弾を打ち出す機構を考案したのはフランスであるが、まもなくこの機構を搭載した飛行機がドイツの手に落ち、ドイツ側はすぐさまこの機構を改良して戦闘機を戦場に送り出す。もちろん、フランス側に特許の申請をするわけも特許料を支払うわけもない。特許権については誰が発明しようが利用できるものは敵の技術でも利用しただろうし、敵の発明にわざわざ利用許諾を申請したり特許料を支払う者はいない。しかし、芸術となると訳が違う。太平洋戦争中日本では、英語を「敵性語」米英仏の作品の上演を「敵性音楽」として禁止していたのであって、「交戦国の作品だから今なら著作権料を踏み倒して演奏し放題」などと考える輩がいたら、たちまち特高か憲兵隊が乗り込んできたことだろう。だいいち、太平洋戦争中の日本はクラシックのみならず音楽などを大手を振って演奏できた時代ではなかったはずである。演奏できたのは戦争を鼓舞する勇ましい軍歌だけであったろう。戦後の混乱期、占領下でも連合国の作曲家の作品がそれほど多く演奏されたとは思えない。著作権に関して連合国が利益を遺失した事実はほとんどなかったはずである。逆にこの「連合国および連合国民の著作権の特例に関する法律」によってドビュッシー、ラヴェル、ガーシュインなどの著作権が10年以上にわたって引き延ばされ、日本が豊かになってクラシックをはじめとして短期間に沢山の音楽が演奏されるようになった時代にこうした作曲家の著作権が有効だったことによって、旧連合国の関係者は莫大な著作権料を徴収し続けたのである。

(続く)