2012年5月9日水曜日

「ナクソス島のアリアドネ」       著作権裁判の顛末(1)

今年で10年になる事からオペラ「ナクソス島のアリアドネ」上演とその後の裁判の顛末についてブログに発表しようと思う。文章は2005年にR.シュトラウス協会年誌に掲載された物と同じ。

日独楽友協会が新国立劇場中劇場での「ナクソス島のアリアドネ」上演を正式に決定したのは2001年の秋のことである。この作品を上演するのなら会場は是非新国立劇場中劇場でと考えていたのだが、会場との日程調整に手間どってしまい、日程が確定したのは公演のわずか8ヶ月ほど前のことであった。

日独楽友協会1990年から91年にかけて私が中心となり、恩師のクルト・レーデルを音楽監督に迎えて設立した団体である。当初アマチュア会員がほとんどで、日独合同演奏など国際親善的な活動を行っていたが、その後若手のフリー演奏家が次々と入会して主要メンバーとなり、1996年からプロフェッショナルなメンバーだけの演奏を行うようになる。法人化していない小さな団体であるが、ドイツやオーストリアで学んだ音楽家が多いので演奏にはこだわりがある。家元制度的で派閥や上下関係が厳しい日本の音楽界では、留学中に少々不義理をすると人間関係が途絶えてしまい、演奏に磨きをかけて帰国しても、演奏の機会のない音楽家が沢山いる。そうした若い音楽家による「シンフォニッシェ・アカデミー」が、次第に合唱との共演、オペラ、オペレッタ、バレエなどの公演を行うことになり、東京以外での演奏の機会も増えてきた。同じような境遇の、才能があっても演奏の機会に恵まれない歌手たちに、派閥や上下関係にとらわれずに舞台に立つ機会を持ってもらおうと、行うこととなったオペラの自主公演第1段が新国立劇場中劇場でのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」である。

日独楽友協会が初めてのオペラ公演の演目に「ナクソス島のアリアドネ」を選んだのには訳がある。序幕に描かれた音楽の現場での崇高な理想と、残酷な現実の相克は、程度の差こそあれ、時代を超えてあらゆる芸術の現場で繰り返されてきた悲喜劇である。「メセナ」を自認する成金の侯爵は、最後まで舞台に姿を現す事はないが、彼の芸術への無知と無理解は、権威主義の権化である侍従長によって舞台上の出演者達に伝えられる。バブル華やかなりし頃人口に膾炙したこの「メセナ」という言葉は、本来損得に関係なく才能ある芸術家を育成しようとする篤志家を指す言葉であるが、日本における「メセナ」はまさに芸術に対する無知と無理解のオンパレードであった。バブル華やかなりし頃、企業も行政も後の批判を恐れて、自らの目や耳で芸術を評価しようとせず、コンクールでの上位入賞者や有名な評論家の推薦がある特定のアーチストだけが支援の対象となり、出演依頼が集中し、広告代理店も加わって多額のスポンサー料が支払われた。特に海外の有名アーチストが目白押しで来日した事は、地道な活動を続けていこうとしていた若手演奏家とって致命的であった。かくして、「バブル」と「メセナ」はかつて中国で吹き荒れた文化大革命の嵐のように一つのジェネレーションをこの国の歴史から抹殺しようとしている。何と、この作品の影の主人公であるこの「町人貴族」の侯爵と二重写しになる事だろうか。

私は1987年に帰国した後5年間、バブル最盛期の日本で、本来学んだ演奏の仕事に就くことができず、マネージャーとして音楽の現場を舞台裏から見てきた。8ヶ月あまりではあるが企業メセナ協議会の事務局にも在籍した私は、日本における芸術の閉塞状況を作り出している芸術への無知と無理解に何とか一石を投じたかったのである。

さて、前置きが長くなったが、2002年に入ってキャストも決まり、音楽稽古が順調に進み始めた。オーケストラのパート譜はアメリカからリプリント版を取り寄せることとし、ピアノボーカルはドイツから20冊を取り寄せた。ドイツ在住のキャストも帰国し、いよいよ立ち稽古が始まった5月はじめごろ、ドイツの出版社ショット社の日本子会社である日本ショット社から突然電話がかかってきた。(ドイツ・ショット社の日本子会社が日本ショット社でありその日本ショット社が英国のブージー&ホークスの代理店として裁判の原告となっているので話がややこしいが)曰く、「著作権の許諾申請がなされていない、レンタル譜の利用申請も受けていない。この作品の著作権は当社が管理しているので至急著作権使用の許諾申請とレンタル譜の利用申し込みをしてほしい」。寝耳に水の請求である。私は著作権の専門家ではないが、少なくともマネージャーとしてクラシックの音楽現場で5年以上の経験があり、音楽作品の著作権が一部の例外を除いて作曲家の死後50年で消滅することは知っている。一部の例外とは所謂「戦時加算」というもので、第2次世界大戦の終了後、サンフランシスコ平和条約によって敗戦国である日本に押しつけられた不平等条約である「連合国および連合国民の著作権の特例に関する法律」(1952年8月制定)が有効となる作曲家の作品である。この法律の根拠は、太平洋戦争の勃発した1941年12月7日(日本時間では12月8日となるがハワイ時間では12月7日であった)からサンフランシスコ平和条約の発効する1952年4月28日までの間日本において連合国の著作権が保護されていなかった(?)ことから、本来消滅するはずであった著作権の保護期間をこの約10年半の分延長するというものである。

第1次世界大戦の当時、回転するプロペラの間から機関銃の弾を打ち出す機構を考案したのはフランスであるが、まもなくこの機構を搭載した飛行機がドイツの手に落ち、ドイツ側はすぐさまこの機構を改良して戦闘機を戦場に送り出す。もちろん、フランス側に特許の申請をするわけも特許料を支払うわけもない。特許権については誰が発明しようが利用できるものは敵の技術でも利用しただろうし、敵の発明にわざわざ利用許諾を申請したり特許料を支払う者はいない。しかし、芸術となると訳が違う。太平洋戦争中日本では、英語を「敵性語」米英仏の作品の上演を「敵性音楽」として禁止していたのであって、「交戦国の作品だから今なら著作権料を踏み倒して演奏し放題」などと考える輩がいたら、たちまち特高か憲兵隊が乗り込んできたことだろう。だいいち、太平洋戦争中の日本はクラシックのみならず音楽などを大手を振って演奏できた時代ではなかったはずである。演奏できたのは戦争を鼓舞する勇ましい軍歌だけであったろう。戦後の混乱期、占領下でも連合国の作曲家の作品がそれほど多く演奏されたとは思えない。著作権に関して連合国が利益を遺失した事実はほとんどなかったはずである。逆にこの「連合国および連合国民の著作権の特例に関する法律」によってドビュッシー、ラヴェル、ガーシュインなどの著作権が10年以上にわたって引き延ばされ、日本が豊かになってクラシックをはじめとして短期間に沢山の音楽が演奏されるようになった時代にこうした作曲家の著作権が有効だったことによって、旧連合国の関係者は莫大な著作権料を徴収し続けたのである。

(続く)

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