2012年10月27日土曜日

堀越学園で働く(その2)

1994年5月、前の年から決まっていた日独楽友協会の演奏旅行がゴールデンウィークに行われ、私は連休明けに再び高崎芸術短期大学に出勤した。相変わらず、月曜から金曜、朝8時には「朝礼」に間に合うように出勤した。授業の準備などに費やせる時間は実際には非常に僅かであり、ほとんどの時間は組合対策の会議、「高校生国際コンクール」の準備、高崎駅前に作られた「国際教育研究所」の手伝い、そして大学を4年制化するための小池学長の構想を口述筆記することなどに費やされた。学長の構想は常に変化していくのでとりとめもない上に「学生は授業の一環として作務(修行として働くこと)を行い、学費を廃止して学内で自給自足する」などといった、非現実的な物だった。

主にオーケストラの授業に使用するための楽器、楽器室の管理を任された私は、いくつかのとんでもない事実を発見する。

第一に、楽器は「ほぼ」管理されてなく、購入時の台帳くらいしかリストも管理台帳もなかった。しかも、購入の記録があるのに存在しない物、購入金額のわからない物、寄付されたり、借りたままになっているため、台帳に存在しない物が沢山あること。つまり、台帳と現物がまったく一致しないのである。

次に、二カ所ある楽器庫、倉庫は凄まじい湿度で、民族楽器などの中にはすでにかなり損壊したり、カビの固まりとなっている物があった。それらの中には人の頭蓋骨で作られた太鼓など、かなり特殊な物もあった。仏門に入っており後に「小池大哲」という出家名まで得た、小池氏らしくもないぞんざいな管理であった。

早速、除湿器4台の購入を要求した。私以前に誰も思いつかなかったのが信じられないことだが、どうやら楽器室には授業の前に学生に勝手に楽器をとりに入らせ、授業後再び返却させていたらしいこと、楽器を学外に持ち出すにあたり、台帳も無しに行っていたらしいことも判った。2リットルの除湿能力のある除湿器4台は、毎朝水を捨てに行っても、翌朝までには再び満水となって止まっていた。楽器室の水を捨てに行くのが私の日課となったが、大きい方の楽器室の湿気についてはほぼイタチごっこであることが後に判った。

「組合」に加盟している教授と教員3名は、別棟に隔離されており「朝礼」にも現れなかった。「朝礼」は組合に加盟していない教授と講師のみで行われ、お誕生日席に座った学長がとりとめもない話をして、全員が拍手喝采をするという、どこか独裁国の閣議のような茶番が毎朝繰り返された。

私が与えられた研究室には私の他、創造学園大学最後の学長となった井上晴彦氏(当時教授)、声楽科のS教授、それに管理システムを開発しているTさんがいて、合計4人で同じ研究室を使っていた。Tさんはかつて、私と同じように講師として招かれながら翌年には授業から外され、研究室に閉じ込められてシステム開発を押しつけられていたのだった。Tさんから、学内の事情をいろいろ聞かされた。そして、楽器や楽譜、資料などは「学長に気に入られているうちに予算要求してしまった方がよい」とも言われた。なぜなら、ほとんどの講師は学長がどこからか気に入って「高崎に骨を埋めるつもりで来て下さい」などと言われて赴任し、中には教授で呼ばれて家族と共に赴任し、マンションなども買ってしまい、その後1年もしないうちに契約を打ち切られてローンが支払えなくなっているような人もいるらしい。

(続く)


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