2018年1月4日木曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(1)

ヨーロッパのインターナショナルスクールすべてがこのインターナショナルスクールのように怪しげな経営だと言い切るつもりはない。しかし、英語圏以外で英語で教育を行っている新興のインターナショナルスクールの多くは、このインターナショナルスクールと同じように教育に経験の乏しい学校運営会社がアジアやロシアなど新興国の富裕層の師弟をターゲットにに行っている営利事業である。


ウィーンに新しくできるインターナショナルスクールの運営に協力してくれないかと友人のシンシアから誘われたのは2012年の夏のことだった。

そのインターナショナルスクールは、最高水準の音楽教育を行いながらIB(国際バカロレア資格)が取れるというユニークな教育を目指しているとのことだった。誰でも知っているグローバルな衛生用品の会社の会長が投資家の一人で、ウィーンの英字新聞の編集長に適任な人材を探してほしいと依頼してきたことから、その英字新聞の記者をしていたシンシアに声がかかり、シンシアはアンサンブルの指導やアートマネジメントの心得がある私に強力を求めてきたのだ。

8月の末、シンシアとともに9月から新しくオープンするキャンパスに校長のホルヘ・Nを訪ねた。キャンパスはウィーンの高級住宅街の中の先指摘にも大変有名な産科病棟の一部を買い取って作られていた。ホルヘ・Nは北欧と南米系のハーフでインターナショナルスクールの経営に経験があるということで、後でわかったことだが、この時点ですでに二人目の校長だった。初代校長に就任するはずだったヨルゲン・Kはマネージメントの学校運営会社によってすでに解任され、開校を数ヶ月前にして急遽Nが招かれたのだった。30分ほどの会見だったが、Nは訪問を大変喜んで「マネージメントには音楽の専門家が誰もいないのでぜひ協力して欲しい」と言うことだった。ウィーンにある学校の校長となるホルヘ・Nが一言もドイツ語ができないこと、「音楽の都」ウィーンに最高水準の音楽教育を行うインターナショナルスクールを設立するのに「マネージメントに音楽の専門家が誰もいない」というのにはいささかびっくりした。この学校は午後3時頃までは一般の科目の授業を英語で行い、そのあと「音楽アカデミー」のレッスンを行うことになっていたのだが、「音楽アカデミー」の先生はすべて外部の超有名講師が行い、その中にはフルートのヴォルフガング・シュルツやチェリストのフランツ・バルトロメイなどウィーン・フィルの首席奏者、イルディコ・ライモンディのような有名オペラ歌手も含まれていた。

私は音楽マネージメントの経験があるが、専門は音楽を教えることなので、是非アンサンブルやオーケストラの指導を任せてほしいと言って、校長のNは了承したとのことだった。そして、条件面の交渉や契約はパーソナルマネージャーのクリスティン・Wが行うから、連絡を待ってほしいとのことになった。Wは上海在住の中国人女性で、投資家の一人である会長の元でかつて秘書を務めたことがあることから、この学校のマネージメントを任された学校運営企業とは別にパーソナルマネージャーとアジア地域のマーケティングを任されていた。

授業が始まる9月になっても校長からもクリスティン・Wからもなかなか連絡がなかった。10月になってWからの電子メールが頻繁に届くようになったが、内容は学校での教育内容の話ではなくて「日本からどのくらいの生徒が集められるか」という質問がほとんどだった。どうやら、学校が標榜しているような教育ができる人材を集めることよりも、まずは生徒を集めることが先決のようだった。私は「自分が教えている学校であれば生徒を誘うこともできるが、そうでなければ生徒の募集などできない」と答えた。

その間にドイツ人の指揮者フォルカー・Hが「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」に就任したとの連絡を受けた。音楽関係の提案はすべてフォルカー・Hを通してほしいとのことだったが、クリスティン・W同様、フォルカー・Hもほとんど学校に現れることはなく、次回の面談は11月末にセッティングされ、そこで条件などが話し合われることになった。

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2012年11月末に、開校してまだ3ヶ月のキャンパスで私とシンシアはおのおのクリスティン・Wと面談した。Wはシンシアには主にウィーンを中心としたヨーロッパ、私には北東アジアでのマーケティングに協力してほしいとのことで、当初の校長との話とは違い音楽や音楽マネージメントについてよりもドイツ語や英語、日本語地域でのマーケティング協力者を求めているという話になってきた。この時点でシンシアと私は顔を見合わせたが、投資家の会長とも連絡を取りつつ協力しようという話になった。

校長のNの子どもたちはこの学校に通うようになっていた。

シンシアは12月からスタッフとなることが決まったが、私はWとの条件面での交渉がまとまらず、契約は年明けに持ち越しとなった。しかし、年末帰国するにあたり、このインターナショナルスクールのパンフレットをごっそり持って帰ることになった。

その後、シンシアからはこの学校の成り立ちについていくつかの捕捉の情報がもたらされた。この学校の出資者には衛生用品会社の会長の他にシンガポールの歯科医師、ニュージーランド人の資産家リチャード・C、ドイツの投資家、アレックス・Oなどがいる。現在はアレックス・Oの経営する、ロンドンに本社を置く学校運営企業によって運営されている。これらの出資者の共通点はシンガポールでビジネスをおこなっていることで、ドイツ人の指揮者フォルカー・Hもシンガポールのナンヤン大学の一部である、ナンヤン音楽アカデミーで指揮者をしていたことから招かれたものだった。

シンシアは契約書の原本をドイツ語で作ること、所轄裁判所をウィーンとすることを粘り強く交渉したが結局私もシンシアも契約書は英語、所轄裁判所はロンドンとする契約をせざるを得なかった。このことは、もしトラブルが発生した場合には、私たちはほぼ泣き寝入りしなくてはならないことを意味する。ウィーンや東京に住んでいて、弁護士を雇ってロンドンで裁判を進めるのは、裁判経費が訴訟額の何倍にもなるからだ。


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