企業メセナ協議会を退職後は再びフリーのマネージャーとして演奏会のプロデュースを行ったり、電通総研の依頼でヨーロッパのアートマネージメントの調査を行ったりすることになった。イギリス、アーツカウンシルオブ・グレートブリテンのハワード・ウェッバー部長は企業メセナ協議会在職中に知り合い、その後何度もオフィスを訪ねてイギリスでの芸術支援の資料を沢山もらった。バンベルク交響楽団事務局長のロルフ・ベック氏を頻繁に訪ねたのもこの頃だ。1990年代はドイツ統一の影響でドイツのオーケストラは多くが解散に追い込まれたりしたが、バンベルク交響楽団はベック氏のリーダーシップによって順調な発展を遂げていた。
こうした中1991年に日独楽友協会の演奏会に出演していた蜻蛉七月院という女性から「来年夏にヨーロッパとの交流を図るための音楽祭を行うので協力して欲しい」という要請を受ける。1992年8月に品川区の「きゅりあん」を1週間連続で借りて、日独楽友協会オーケストラの演奏会の他様々な演奏会を行いたい。出演者については杦山さんに交渉を任せたい、というものだった。蜻蛉女史は高級レストランを貸し切って頻繁にパーティーを行ったりして、私や他の音楽家達も何度も招かれた。帰りには何故か愛知県発行のタクシーチケットが参加者全員に手渡された。「愛知県が全面的に支援しています」と言うことだったが、愛知県の担当者が現れたことはなかった。
私は1991年9月にヘルシンキを訪れてヘルシンキ・ジュリアストリングスのゲーザ・シルヴァイ氏から「1992年8月にアジア演奏旅行を行うのだが、日本でも演奏できないか?」という問い合わせを受けていた。また、本来1991年12月のモーツアルト没後200周年に日本ツアーを行う予定であったアウクスブルク大聖堂少年合唱団も来日の意思を示していた。結局様々な交渉の末ヘルシンキ・ジュリアストリングスは自己負担でアジアツアーの途中3日間だけ来日すること、アウクスブルク大聖堂少年合唱団はコンツェルトハウス・ジャパンが招聘し、兵庫県の尼崎市や群馬県・栃木県の「日本ロマンチック街道」などで公演を行い、途中「きゅりあん」で1回だけの「ヨハネ受難曲」を、また日航機事故から7年目を迎えていた群馬県の上野村でモーツアルトの「レクイエム」を演奏することも決定した。
本来女声合唱ではなく少年合唱で演奏されるバッハやモーツアルトの宗教音楽を是非日本で演奏したいという私の無謀な意思もあって、さらにすでに決まっていたPMF音楽祭終了後、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人に演奏に参加してもらう話まで付け、航空運賃の一部をルフトハンザが負担してくれることになった。ツアー中のハンドリングはすべて私が行うことになった。
ところが蜻蛉七月院女史は1992年5月頃になって突然「スポンサーが降りてしまったので音楽祭は中止して欲しい」と言い出した。ヘルシンキの団体もアウクスブルクの団体もすでにツアー全体の予定を組んで航空券の予約も済んでいたし、東京以外での演奏会をキャンセルすればキャンセル料が発生する。今だったら東京での演奏会だけすっぽりキャンセルするだろうが、当時の私にはこれだけのプロジェクトを自分の責任で立ち上げておいて、キャンセルするだけの決断はできなかった。結局会場費以外のすべての経費を私が個人的に負担して、予定通り演奏会を決行することになりしかも宣伝費の不足や実際開催できるのかどうかの交渉がぎりぎりまでずれ込んだことから莫大な赤字が出ることになった。
アウクスブルク大聖堂少年合唱団はドイツでは五本の指に入る少年合唱団だが、日本の主催者は少年合唱団と児童合唱団の区別もついてないようだった。ほとんどの主催者が「ドイツと日本の民謡」のようなプログラムを選んだ上「歓迎行事」と称してあちこちの市役所などでさんざんノーギャラの演奏を要求された。「歓迎行事」のお陰で日光から上野村に向かう途中宇都宮市役所での歓迎行事に参加を要求された少年達は、上野村に着く頃にはぐったりしており、気分の悪くなる子も続出して指揮者のカムラー氏は私に食ってかかった。上野村では合唱団のギャラの他には、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人の入ったオーケストラに50万円しか予算が付けられないと言われた。これも私が持ち出すことになった。上野村に着くと「慰霊の園」には村出入りの葬祭業者が建てた豪華な野外ステージができあがっていた。葬祭業者には数百万円の経費が支払われたと言うことだった。
パンコンサーツ、メセナ協議会で働いた2年間の貯金がすべてなくなり、数百万円の借金だけが残ったのだった。ツアー中の合唱団の食費の支払いを巡って招聘もとのコンツェルトハウス・ジャパンと裁判になるというおまけまでついた。
こうした中1991年に日独楽友協会の演奏会に出演していた蜻蛉七月院という女性から「来年夏にヨーロッパとの交流を図るための音楽祭を行うので協力して欲しい」という要請を受ける。1992年8月に品川区の「きゅりあん」を1週間連続で借りて、日独楽友協会オーケストラの演奏会の他様々な演奏会を行いたい。出演者については杦山さんに交渉を任せたい、というものだった。蜻蛉女史は高級レストランを貸し切って頻繁にパーティーを行ったりして、私や他の音楽家達も何度も招かれた。帰りには何故か愛知県発行のタクシーチケットが参加者全員に手渡された。「愛知県が全面的に支援しています」と言うことだったが、愛知県の担当者が現れたことはなかった。
私は1991年9月にヘルシンキを訪れてヘルシンキ・ジュリアストリングスのゲーザ・シルヴァイ氏から「1992年8月にアジア演奏旅行を行うのだが、日本でも演奏できないか?」という問い合わせを受けていた。また、本来1991年12月のモーツアルト没後200周年に日本ツアーを行う予定であったアウクスブルク大聖堂少年合唱団も来日の意思を示していた。結局様々な交渉の末ヘルシンキ・ジュリアストリングスは自己負担でアジアツアーの途中3日間だけ来日すること、アウクスブルク大聖堂少年合唱団はコンツェルトハウス・ジャパンが招聘し、兵庫県の尼崎市や群馬県・栃木県の「日本ロマンチック街道」などで公演を行い、途中「きゅりあん」で1回だけの「ヨハネ受難曲」を、また日航機事故から7年目を迎えていた群馬県の上野村でモーツアルトの「レクイエム」を演奏することも決定した。
本来女声合唱ではなく少年合唱で演奏されるバッハやモーツアルトの宗教音楽を是非日本で演奏したいという私の無謀な意思もあって、さらにすでに決まっていたPMF音楽祭終了後、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人に演奏に参加してもらう話まで付け、航空運賃の一部をルフトハンザが負担してくれることになった。ツアー中のハンドリングはすべて私が行うことになった。
ところが蜻蛉七月院女史は1992年5月頃になって突然「スポンサーが降りてしまったので音楽祭は中止して欲しい」と言い出した。ヘルシンキの団体もアウクスブルクの団体もすでにツアー全体の予定を組んで航空券の予約も済んでいたし、東京以外での演奏会をキャンセルすればキャンセル料が発生する。今だったら東京での演奏会だけすっぽりキャンセルするだろうが、当時の私にはこれだけのプロジェクトを自分の責任で立ち上げておいて、キャンセルするだけの決断はできなかった。結局会場費以外のすべての経費を私が個人的に負担して、予定通り演奏会を決行することになりしかも宣伝費の不足や実際開催できるのかどうかの交渉がぎりぎりまでずれ込んだことから莫大な赤字が出ることになった。
アウクスブルク大聖堂少年合唱団はドイツでは五本の指に入る少年合唱団だが、日本の主催者は少年合唱団と児童合唱団の区別もついてないようだった。ほとんどの主催者が「ドイツと日本の民謡」のようなプログラムを選んだ上「歓迎行事」と称してあちこちの市役所などでさんざんノーギャラの演奏を要求された。「歓迎行事」のお陰で日光から上野村に向かう途中宇都宮市役所での歓迎行事に参加を要求された少年達は、上野村に着く頃にはぐったりしており、気分の悪くなる子も続出して指揮者のカムラー氏は私に食ってかかった。上野村では合唱団のギャラの他には、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人の入ったオーケストラに50万円しか予算が付けられないと言われた。これも私が持ち出すことになった。上野村に着くと「慰霊の園」には村出入りの葬祭業者が建てた豪華な野外ステージができあがっていた。葬祭業者には数百万円の経費が支払われたと言うことだった。
パンコンサーツ、メセナ協議会で働いた2年間の貯金がすべてなくなり、数百万円の借金だけが残ったのだった。ツアー中の合唱団の食費の支払いを巡って招聘もとのコンツェルトハウス・ジャパンと裁判になるというおまけまでついた。
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