結局、合宿はパスした。教官からも「残念だ」という一言を添えた暑中見舞いが来ていた。
しかし、夏が来る前に大きな変化が起こる。 ドレスデン・シュターツカペレが来日し、私は楽屋に日参していろいろな人と知り合ったが、最も重要なのはアロイス・バンブーラ教授と知り合ったことだ。
バンブーラ教授は来日公演のプログラムの内「魔弾の射手」しか乗っていなかったので、来日中3回もレッスンを受けることができた。 それ以外にも東京のあちこちを案内して差し上げた。もっとも教授はもう何回も日本にきていたのだが。
私は武蔵野音大で起こることにもはや興味がなくなってしまった。
あまりにレベルが違うのである。バンブーラ教授はレッスン料を受け取らず、毎回2時間近くレッスンしてくださった。これは、バンブーラ教授に限ったことではない。私が楽屋を訪ねて教えを請うた演奏家たちは、時間が有ればレッスンをしてくれたが、レッスン料を受け取った人はいなかった。その中にはチェコフィルのミロスラフ・ヘイダ氏のような偉大な教師が何人もいる。
そうこうするうちにトロンボーン会の合宿は「無事」終了する。私が行かなかったのは彼らすべてにとって本当に幸いだ。もし行っていたら彼らは法廷に立たなくてはならなかったろう。それも最悪の場合刑事被告人として(刑法204条=傷害罪、同206条=傷害現場助勢罪)。もちろん民事上の賠償責任は免れないし、監督責任者は職を失うことになっただろう。 私は私以前に誰も「告訴」を考えなかったことが理解できない。また、暴行を行う側も誰かが告訴したらどうしようと考えなかったのは恐ろしく無思慮である。 新入生を集団で抑えつけて、ズボンと下着を脱がせ、粘膜に塗れば酷い火傷、場合によっては壊死を引き起こすアンモニアを含んだ薬液を性器に塗布する行為は暴行傷害事件であり、告訴は被害者でなくてもできるのだ。しかも共謀共同正犯である。
秋口から大学に行くこと自体が面倒になってくる。行けば「お前はキンカンを塗られなかった」という羨望と怨嗟(これはまったくの逆恨みで、塗られたくないのなら集団で拒否すれば済んだのである)の声が待っている。キンカンを拒否したことがまるで犯罪者のようだ。
和声やソルフェージュや音楽史など、いくつかの必須科目だけ出席して昼頃には帰宅する日が続く。学園祭のブラスバンドは同級生達が勝手に降り番にしてくれた。
大学1年の冬休み、私は3ヶ月近くヨーロッパに渡る。初めての海外はフランクフルトまで片道約30時間かけて、カラチ乗り換えのパキスタン航空だった。しかもフランクフルトについてすぐにウィーン行きの列車に飛び乗って更に10時間近い旅となった。当時ウィーンにいた姉夫婦の家に2泊だけしすぐにドレスデンに向かった。いくつかの試験をすっぽかしてしまったので単位が取れなくなったが、もうどうでも良かった。
ドイツ語は初めての授業の時に講師が「君は僕より発音が良いねえ」と言うので、これはもう来なくていいと言うことだろうと思ってそれ以降行かなかったらやはり単位はもらえなかった。その代わり、ドイツで約1ヶ月間、ほぼ一言も日本語を話す機会がなかった私は、ウィーンに戻った時にはもうかなりドイツ語ができるようになっていた。
履修届を出す期限ぎりぎり、ゴールデンウィーク直前に日本に戻った私は武蔵野音楽大学に行き続けることを深刻に悩むようになる。親には高額の授業料を出してもらっている。できることなら日本の大学卒業資格は取っておきたかった。一方で、同級生と顔を合わせるのも毎日苦痛になってきた。ましてや、来年は江古田に行かなくてはならないと思うと胃が痛くなることばかりだった。江古田では卒業生の間にまで「武蔵野音楽大学の素晴らしい伝統であるキンカンを拒否し、集団の和を乱した酷い奴」という評判が広まっていた。あったこともない卒業生にいきなり難癖を付けられるかも知れない。こちらは相手の顔を知らないので、欠礼したりしたらさらに酷いことになる。
また、上級生達のファッションやしゃべり方も私を憂鬱にした。夏は殆どがアロハシャツ、冬は黒や茶色の革ジャンである。要するにチンピラと変わらない。私はかなりすり減ったが、まだ決定的に退学を考えていたわけではない。その決断を付けることになったのは、夏のオーケストラの合宿だ。これは1、2年生だけの合宿なので上級生は参加しない。しかし「杦山はキンカンがまだなので合宿で塗る」という話は私の耳にも入っていた。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿