2晩目のモーツアルトホールでの伝統的な邦楽のみの演奏会はそこそこに客も入り、ポピュラーな作品だけであったことから反応もそう悪くなかった。翌日、新聞に2回の演奏会の批評が出た。はっきり言って疑問符のつらなる酷評であったが、ドイツ語のわからない一行は「新聞に出た!」と言うことだけでご満悦であった。しかし1晩目の演奏会のできに関する自覚症状はあったようで、私が「私はもうウィーンで仕事はできません」と言うと流石の小池氏もばつが悪そうな表情を浮かべていた。
小池氏はウィーンでは美術館にもオペラにも興味がないようだった。宮下氏の提案で翌日から2泊、一行をザルツカンマーグートに案内した。まだ「Hotel Post」と言われていた「白馬亭」の新館に着くと、3日間ほとんど寝ていなかった私は打ち上げを早めに切り上げて泥のように寝た。小春日和だったザルツカンマーグートは途中から雪が降り始めた。
一行が大満足で帰国した後、私は気の重い残務整理にコンツェルトハウスに向かった。本当はギャラなど辞退したいところだったがそうも行かなかった。インテンダントもプロデューサーも、どちらかというと私に同情してくれていたが、ヨーロッパから日本に招く演奏家についてはあれほどこだわりのあった私が「専門でない」というだけで、事前に演奏チェックをするなり他の人選をするなりキャンセルを出すなりしなかったのは完全にミスだ。ヨーロッパの演奏家だったら自分のパートナーを選ぶに当たっては自分自身の評価がかかわってくることがわかっているし、こういう人選は絶対しない。しかし、日本の演奏家は情実の方が大事になる事があるのだと言うことがわかった。
話は前後するがこの年の春、私は新しくできる「埼玉県芸術文化振興財団」の採用試験を受けた。試験は1次、2次とあってアートマネージメントばやりだったこともあり、1次試験は1000人以上が受験し、川越の大きな大学のキャンパスを使って行われた。内容は1次が通常の公務員採用試験のような内容、2次が別日程で「埼玉県の芸術振興には何をすればよいか」の様な小論文だった。会場に着くと皆公務員試験の例題のような問題集を抱えているので、何も準備していなかった私は驚いたが、ともかく1次も2次もパスして採用枠の28人の中に選ばれた。私は翌年の業務開始前にドイツのアートマネージメントを勉強しておこうと、レーデル師匠やミュンヘンフィルのメンバーを通してミュンヘンの複合文化施設「ガスタイク」のインテンダントDr.ハインツに連絡を取り、翌年1月から2ヶ月間ガスタイクの事務局でインターンを行うこととなっていた。インターンは僅かな報酬が出るが、もちろん航空運賃や滞在費は私費である。ウィーンから日本に戻り、様々な準備をして12月末再びミュンヘンに向かった。インターンは1月はじめから始まった。
ガスタイクはドイツでは珍しい複合文化施設でミュンヘンフィルのホームグラウンド(当時はまだチェリビダッケがシェフ)であるフィルハーモニーの他、3つのホール、市民大学、市立図書館が同居している。マネージメントはそれぞれ独立しているが、催しは連携が図られて調整される。ガスタイクでの業務は主にマーケティングリサーチ、アンケートをどのような方法で行うか、アンケートの質問項目や回収方法の検討などだった。聴衆の嗜好や家からの距離、支出できる金額などを詳細に調べることが重要で、定期的にアンケートが行われてマーケティングリサーチの分析は自前で行われる。
こうした業務の他にハード面での施設を地下深くから天井裏までくまなく案内し、説明してもらった。ガスタイクは当時まだドイツでは珍しい完全空調の施設で冷暖房だけでなく湿度も一定に保たれている。壁面や大きなガラス面にも暖房装置があり、ホール内の空気は地下の水槽を通して加湿される。水槽内には巨大な紫外線灯が並んでいて加湿用の水は除菌される。ガスタイクが面しているローゼンハイマー通りはSバーン(近郊区間を走る電車)の主要路線で、8系統のSバーンが数分おきに通過するが、その騒音がホール内に伝わらないようにするためにも細心の注意が払われている。
フィルハーモニーは東京芸術劇場などと同じようなくさび形のホールで、舞台の高さ、反響板や音響反射板の形状や向きは実際にミュンヘンフィルがここで演奏しながら調整し、何度も変更を加えられてきた(実際には大ホールの音響には今でも不満の声があるが)。
チェリビダッケは特別の場合を除いてすべての練習を1回目から公開していた。もちろんすべての練習がフィルハーモニーで行われた。私のミュンヘンでのトロンボーンの師匠、D.シュミットはミュンヘンフィルの首席トロンボーン奏者だったし、レーデル師匠も懇意にされていたので私もかなりの回数練習を見に行ったし、チェリビダッケにも紹介されていつも大きな温かい手で握手してくれた。チェリビダッケは日本人が大好きだったが、私はオーケストラの練習や公開レッスンでのチェリビダッケが少々苦手だった。しかしそんな事はもちろんおくびにも出さない。ヴァントなど他の指揮者の公開されていない練習も見ることができた。
結局この2ヶ月で私はかなりインサイダーとみなしてもらえるようになった。インターンが終了する時にはインターン終了の証明書と共にガスタイクの巨大な設計図、ドイツで一般的に主催者が演奏家と交わす各種契約書のひな形など沢山の資料をもらった(後に火災で焼失)。
しかし3月に帰国した私を待っていたのはがっかりするような知らせだった。
(続く)
小池氏はウィーンでは美術館にもオペラにも興味がないようだった。宮下氏の提案で翌日から2泊、一行をザルツカンマーグートに案内した。まだ「Hotel Post」と言われていた「白馬亭」の新館に着くと、3日間ほとんど寝ていなかった私は打ち上げを早めに切り上げて泥のように寝た。小春日和だったザルツカンマーグートは途中から雪が降り始めた。
一行が大満足で帰国した後、私は気の重い残務整理にコンツェルトハウスに向かった。本当はギャラなど辞退したいところだったがそうも行かなかった。インテンダントもプロデューサーも、どちらかというと私に同情してくれていたが、ヨーロッパから日本に招く演奏家についてはあれほどこだわりのあった私が「専門でない」というだけで、事前に演奏チェックをするなり他の人選をするなりキャンセルを出すなりしなかったのは完全にミスだ。ヨーロッパの演奏家だったら自分のパートナーを選ぶに当たっては自分自身の評価がかかわってくることがわかっているし、こういう人選は絶対しない。しかし、日本の演奏家は情実の方が大事になる事があるのだと言うことがわかった。
話は前後するがこの年の春、私は新しくできる「埼玉県芸術文化振興財団」の採用試験を受けた。試験は1次、2次とあってアートマネージメントばやりだったこともあり、1次試験は1000人以上が受験し、川越の大きな大学のキャンパスを使って行われた。内容は1次が通常の公務員採用試験のような内容、2次が別日程で「埼玉県の芸術振興には何をすればよいか」の様な小論文だった。会場に着くと皆公務員試験の例題のような問題集を抱えているので、何も準備していなかった私は驚いたが、ともかく1次も2次もパスして採用枠の28人の中に選ばれた。私は翌年の業務開始前にドイツのアートマネージメントを勉強しておこうと、レーデル師匠やミュンヘンフィルのメンバーを通してミュンヘンの複合文化施設「ガスタイク」のインテンダントDr.ハインツに連絡を取り、翌年1月から2ヶ月間ガスタイクの事務局でインターンを行うこととなっていた。インターンは僅かな報酬が出るが、もちろん航空運賃や滞在費は私費である。ウィーンから日本に戻り、様々な準備をして12月末再びミュンヘンに向かった。インターンは1月はじめから始まった。
ガスタイクはドイツでは珍しい複合文化施設でミュンヘンフィルのホームグラウンド(当時はまだチェリビダッケがシェフ)であるフィルハーモニーの他、3つのホール、市民大学、市立図書館が同居している。マネージメントはそれぞれ独立しているが、催しは連携が図られて調整される。ガスタイクでの業務は主にマーケティングリサーチ、アンケートをどのような方法で行うか、アンケートの質問項目や回収方法の検討などだった。聴衆の嗜好や家からの距離、支出できる金額などを詳細に調べることが重要で、定期的にアンケートが行われてマーケティングリサーチの分析は自前で行われる。
こうした業務の他にハード面での施設を地下深くから天井裏までくまなく案内し、説明してもらった。ガスタイクは当時まだドイツでは珍しい完全空調の施設で冷暖房だけでなく湿度も一定に保たれている。壁面や大きなガラス面にも暖房装置があり、ホール内の空気は地下の水槽を通して加湿される。水槽内には巨大な紫外線灯が並んでいて加湿用の水は除菌される。ガスタイクが面しているローゼンハイマー通りはSバーン(近郊区間を走る電車)の主要路線で、8系統のSバーンが数分おきに通過するが、その騒音がホール内に伝わらないようにするためにも細心の注意が払われている。
フィルハーモニーは東京芸術劇場などと同じようなくさび形のホールで、舞台の高さ、反響板や音響反射板の形状や向きは実際にミュンヘンフィルがここで演奏しながら調整し、何度も変更を加えられてきた(実際には大ホールの音響には今でも不満の声があるが)。
チェリビダッケは特別の場合を除いてすべての練習を1回目から公開していた。もちろんすべての練習がフィルハーモニーで行われた。私のミュンヘンでのトロンボーンの師匠、D.シュミットはミュンヘンフィルの首席トロンボーン奏者だったし、レーデル師匠も懇意にされていたので私もかなりの回数練習を見に行ったし、チェリビダッケにも紹介されていつも大きな温かい手で握手してくれた。チェリビダッケは日本人が大好きだったが、私はオーケストラの練習や公開レッスンでのチェリビダッケが少々苦手だった。しかしそんな事はもちろんおくびにも出さない。ヴァントなど他の指揮者の公開されていない練習も見ることができた。
結局この2ヶ月で私はかなりインサイダーとみなしてもらえるようになった。インターンが終了する時にはインターン終了の証明書と共にガスタイクの巨大な設計図、ドイツで一般的に主催者が演奏家と交わす各種契約書のひな形など沢山の資料をもらった(後に火災で焼失)。
しかし3月に帰国した私を待っていたのはがっかりするような知らせだった。
(続く)
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