私が2年間の留学を終えて日本に帰国したのは1987年の8月だった。帰国しても仕事の当てはなかったが偶然知り合ったヴァイオリン店でしばらくアルバイトをさせてもらえることになった。実は東ドイツのオーケストラで働かないかという話はあったのだが、当時の東ドイツのオーケストラの月給は700から900東マルク、現地で暮らして行くには充分だが何か果物か野菜でも食べたくなって西ベルリンに買い物に行けば(現地の人はそれすらできなかったが)すぐになくなってしまう金額だ。日本に里帰りしようと思えば何年も貯金するか、親に飛行機代を出してもらうようなことになる。
翌年の秋から数ヶ月京都でコンサートマネージメントの手伝いをすることになり、1989年の春に東京に戻ってからもフリーでコンサートマネージメントの手伝い(会場の裏方や、パンフレットやプログラムの印刷など)を行っていた。どこに行っても武蔵野音楽大学の同級生や先輩が私の「評判」を知っているオーケストラのオーディションなど受けたくなかった。通常オーケストラに入るにはいろいろなオーケストラのエキストラを務めて、日本で好まれる演奏法をよく知っておかなくてはならない。武蔵野音大で「悪い評判」を立てられた私をエキストラに呼んでくれるオーケストラはなかった。また、私は奏法も完全にドイツ式で「ドイツ管」と呼ばれる柔らかで弦楽器や木管楽器の音と良く解け合う楽器を使っている。ヤマハやバックなどの通常アメリカ管と呼ばれる硬質で金属的な音のするトロンボーンとは一緒に吹きたくなかったことも事実だ。
東京に戻ってから1年ほどの間に個人的にコンサートのプロデュースをし、かなり無理もあったが個人のリスクで海外から招いた音楽家の室内楽のコンサートのシリーズを行った。私が呼びかけて結成されたグループもある。バロックヴァイオリンの寺神戸亮、ガンバの上村かおり、チェンバロのクリストフ・ルセを「東京バロックトリオ」として売り出したのは私だ。クリストフ・ルセはこれが初来日となった。ウィーン室内管弦楽団のコンサートマスター、ルードヴィッヒ・ミュラーを中心に結成させた弦楽四重奏団はその後「アルクスアンサンブル」を経て現在は「アーロンクァルテット」として新ウィーン楽派の作品を中心とするレパートリーで押しも押されもしないウィーンの実力派だ。こうしたメンバーと共に主に長野や群馬の小さな主催者が開いてくれる演奏会の会場を回った。1回の演奏のギャラが15万とか、20万とか、そのくらいだったから飛行機代と僅かなギャラを払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。
1989年の秋、ほぼ同時に中規模なコンサートマネージメント2社から求人の広告があり、面接を受けたところ両方に受かってしまった。片方はコンツェルトハウス・ジャパンという会社で当時はまだ年金や保険などがきちんとしていなかったのが不安だったのでもう一つのパンコンサーツと言う会社に入社する。この会社はホリプロダクションの子会社でクラシックのマネージメントの他音楽関係の書籍の出版などを行っていた。しかし実はここに罠が潜んでいた。親会社が大きいので年金や保険、福利厚生などもしっかりしていたのだが、丁度LPからCDに切り替わる頃に大量のLPレコードと組み合わせて出版した「ヘリテージオブミュージック」というクラシック大全集が大量に売れ残り、倉庫代だけでも膨大な赤字が出ていたのだ。
入社から3ヶ月は、海外からの演奏家を連れて1日も休みなく日本中を駆け回り、その間にクルト・レーデル教授をはじめ新たに知り合った音楽家も多い。クラシック音楽のマネージメントと、演奏会の企画はうまく行っているように見えていた。
ところが入社から1年を過ぎてまもなく、堀威夫氏ら親会社のホリプロ幹部はかさんでいる出版部門での赤字を理由にパンコンサーツを閉鎖することを決定した。もちろん、子会社であるパンコンサーツの社員である私たちには決定が知らされただけだった。世間ではモーツアルト没後200年のイベントが盛んに開かれバブル末期のクラシックブームの中、1991年1月にパンコンサーツは閉鎖される。入社後まだ1年半も経っていなかったし、出版部門での赤字は私には何の責任もないので抗議したら「AV製作本部に異動するならホリプロでそのまま雇用する」とのことだった。はっきり言って私はAVというのはアダルトビデオだと思っていたので固辞して退社を決めた。
パンコンサーツを退社してすぐに当時話題となっていた企業メセナ協議会に根本長兵衛専務理事を訪ねた。メセナは同様にバブル末期にしきりと話題になっていたし、根本氏は朝日新聞時代の父の後輩だったので父に電話一本入れてもらった。実は私はメセナ協議会自体で働きたいのではなくて、メセナ協議会の会員企業で直接芸術支援を行っているところに入りたかったのだが、事務局で人が足りないとかで有楽町マリオンの企業メセナ協議会で働くことになった。
通勤便利で見晴らしの良いオフィスだったが給料は一気に半分になってしまって苦しかった。ホリプロの子会社は残業代は一切付かないのだが、はじめから「勤務手当」だとかいう残業と休日出勤の補償みたいなものが出ていて、その上わずかだが出張旅費が出て、それで外食をすると休みがほとんど無い分だけ、食費はほとんどかからなかった。メセナ協議会は17時以降は割り増しの残業代が出る規定になっていたが、とても残業する気にはならなかった。それは仕事の内容が考えているような物とまったく違っていたからだ。
本来「芸術に詳しい人」を探していると言うことだったので、会員企業が効率的にメセナ活動ができるようにコンサルティングなどができるのかと思っていたが、実際にはメセナ協議会自体が何をしたらよいか、手探りで進めているような状況だった。それも会員企業がお互いにお互いの顔色を見ながら、なるべく縄張りを荒らさないように実績作りをしていた。事務局員にはほとんど発言権がなく「メセナ」という季刊誌を編集したり外国から招いてきたアートマネージメント関係の講師のシンポジウムを主催したりというものであった。実際には業務のほとんどが会員企業宛の会報やお知らせ、季刊誌の発送などで、これらをアウトソーシングせず、すべてを事務局員が総出で、長机を並べて、プリントを三つ折りにし、封筒に詰め、封筒を糊で貼り、切手を貼り郵便局に運んでいた。しばらくして流石に見かねて「料金別納郵便というのにするといちいち切手を貼らないで済みますよ」と言ったら上司の事務局次長はキツネにつままれたような顔をしていた。それでとりあえず、切手だけは貼らないで私が東京中央郵便局まで持っていって別納のはんこを押すことになった。封筒を全部使い切ってしまうまで「料金別納印」の印刷された封筒は作れなかった。
2月に入局した企業メセナ協議会事務局だが、8月に自主退職することにした。いくつか興味深いセミナーも聴講できたし、慶応大学で始まったアートマネージメント講座も聴講させていただけることになったが、ともかく作業のほとんどは封筒貼りばかりで、何かデータの収集とか、メセナの実例とかを研究できるわけでもなければ自分の意見を発表できる場もなかった。
しかしそれにもまして決定的だったのは、8月末の給料日に何気なくデスクの上に置きっぱなしにされていた事務局次長の給与明細だった。この人は永井道雄氏の紹介で港ユネスコから天下りしてきた人だが、フランス語ができると言うだけで芸術に何の知識も造詣もあるわけではない。それなら私だってドイツ語ができるし、少なくとも音楽の専門の勉強を6年間はしてきているわけだし、ヨーロッパでのアートマネージメントの実情にも詳しいわけだ。なんと、天下りで管理職に入ったと言うだけでこの人は一日中まったく同じ袋貼りの仕事をして、しかも「料金別納郵便」も知らないで何千枚という発送物にいちいち切手を貼って発送していたのに私の3倍強の、つまり手取り50万近い月給をもらっているのだった。その事実を知った翌日。私は辞表を書いて事務局を後にした。
(続く)
翌年の秋から数ヶ月京都でコンサートマネージメントの手伝いをすることになり、1989年の春に東京に戻ってからもフリーでコンサートマネージメントの手伝い(会場の裏方や、パンフレットやプログラムの印刷など)を行っていた。どこに行っても武蔵野音楽大学の同級生や先輩が私の「評判」を知っているオーケストラのオーディションなど受けたくなかった。通常オーケストラに入るにはいろいろなオーケストラのエキストラを務めて、日本で好まれる演奏法をよく知っておかなくてはならない。武蔵野音大で「悪い評判」を立てられた私をエキストラに呼んでくれるオーケストラはなかった。また、私は奏法も完全にドイツ式で「ドイツ管」と呼ばれる柔らかで弦楽器や木管楽器の音と良く解け合う楽器を使っている。ヤマハやバックなどの通常アメリカ管と呼ばれる硬質で金属的な音のするトロンボーンとは一緒に吹きたくなかったことも事実だ。
東京に戻ってから1年ほどの間に個人的にコンサートのプロデュースをし、かなり無理もあったが個人のリスクで海外から招いた音楽家の室内楽のコンサートのシリーズを行った。私が呼びかけて結成されたグループもある。バロックヴァイオリンの寺神戸亮、ガンバの上村かおり、チェンバロのクリストフ・ルセを「東京バロックトリオ」として売り出したのは私だ。クリストフ・ルセはこれが初来日となった。ウィーン室内管弦楽団のコンサートマスター、ルードヴィッヒ・ミュラーを中心に結成させた弦楽四重奏団はその後「アルクスアンサンブル」を経て現在は「アーロンクァルテット」として新ウィーン楽派の作品を中心とするレパートリーで押しも押されもしないウィーンの実力派だ。こうしたメンバーと共に主に長野や群馬の小さな主催者が開いてくれる演奏会の会場を回った。1回の演奏のギャラが15万とか、20万とか、そのくらいだったから飛行機代と僅かなギャラを払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。
1989年の秋、ほぼ同時に中規模なコンサートマネージメント2社から求人の広告があり、面接を受けたところ両方に受かってしまった。片方はコンツェルトハウス・ジャパンという会社で当時はまだ年金や保険などがきちんとしていなかったのが不安だったのでもう一つのパンコンサーツと言う会社に入社する。この会社はホリプロダクションの子会社でクラシックのマネージメントの他音楽関係の書籍の出版などを行っていた。しかし実はここに罠が潜んでいた。親会社が大きいので年金や保険、福利厚生などもしっかりしていたのだが、丁度LPからCDに切り替わる頃に大量のLPレコードと組み合わせて出版した「ヘリテージオブミュージック」というクラシック大全集が大量に売れ残り、倉庫代だけでも膨大な赤字が出ていたのだ。
入社から3ヶ月は、海外からの演奏家を連れて1日も休みなく日本中を駆け回り、その間にクルト・レーデル教授をはじめ新たに知り合った音楽家も多い。クラシック音楽のマネージメントと、演奏会の企画はうまく行っているように見えていた。
ところが入社から1年を過ぎてまもなく、堀威夫氏ら親会社のホリプロ幹部はかさんでいる出版部門での赤字を理由にパンコンサーツを閉鎖することを決定した。もちろん、子会社であるパンコンサーツの社員である私たちには決定が知らされただけだった。世間ではモーツアルト没後200年のイベントが盛んに開かれバブル末期のクラシックブームの中、1991年1月にパンコンサーツは閉鎖される。入社後まだ1年半も経っていなかったし、出版部門での赤字は私には何の責任もないので抗議したら「AV製作本部に異動するならホリプロでそのまま雇用する」とのことだった。はっきり言って私はAVというのはアダルトビデオだと思っていたので固辞して退社を決めた。
パンコンサーツを退社してすぐに当時話題となっていた企業メセナ協議会に根本長兵衛専務理事を訪ねた。メセナは同様にバブル末期にしきりと話題になっていたし、根本氏は朝日新聞時代の父の後輩だったので父に電話一本入れてもらった。実は私はメセナ協議会自体で働きたいのではなくて、メセナ協議会の会員企業で直接芸術支援を行っているところに入りたかったのだが、事務局で人が足りないとかで有楽町マリオンの企業メセナ協議会で働くことになった。
通勤便利で見晴らしの良いオフィスだったが給料は一気に半分になってしまって苦しかった。ホリプロの子会社は残業代は一切付かないのだが、はじめから「勤務手当」だとかいう残業と休日出勤の補償みたいなものが出ていて、その上わずかだが出張旅費が出て、それで外食をすると休みがほとんど無い分だけ、食費はほとんどかからなかった。メセナ協議会は17時以降は割り増しの残業代が出る規定になっていたが、とても残業する気にはならなかった。それは仕事の内容が考えているような物とまったく違っていたからだ。
本来「芸術に詳しい人」を探していると言うことだったので、会員企業が効率的にメセナ活動ができるようにコンサルティングなどができるのかと思っていたが、実際にはメセナ協議会自体が何をしたらよいか、手探りで進めているような状況だった。それも会員企業がお互いにお互いの顔色を見ながら、なるべく縄張りを荒らさないように実績作りをしていた。事務局員にはほとんど発言権がなく「メセナ」という季刊誌を編集したり外国から招いてきたアートマネージメント関係の講師のシンポジウムを主催したりというものであった。実際には業務のほとんどが会員企業宛の会報やお知らせ、季刊誌の発送などで、これらをアウトソーシングせず、すべてを事務局員が総出で、長机を並べて、プリントを三つ折りにし、封筒に詰め、封筒を糊で貼り、切手を貼り郵便局に運んでいた。しばらくして流石に見かねて「料金別納郵便というのにするといちいち切手を貼らないで済みますよ」と言ったら上司の事務局次長はキツネにつままれたような顔をしていた。それでとりあえず、切手だけは貼らないで私が東京中央郵便局まで持っていって別納のはんこを押すことになった。封筒を全部使い切ってしまうまで「料金別納印」の印刷された封筒は作れなかった。
2月に入局した企業メセナ協議会事務局だが、8月に自主退職することにした。いくつか興味深いセミナーも聴講できたし、慶応大学で始まったアートマネージメント講座も聴講させていただけることになったが、ともかく作業のほとんどは封筒貼りばかりで、何かデータの収集とか、メセナの実例とかを研究できるわけでもなければ自分の意見を発表できる場もなかった。
しかしそれにもまして決定的だったのは、8月末の給料日に何気なくデスクの上に置きっぱなしにされていた事務局次長の給与明細だった。この人は永井道雄氏の紹介で港ユネスコから天下りしてきた人だが、フランス語ができると言うだけで芸術に何の知識も造詣もあるわけではない。それなら私だってドイツ語ができるし、少なくとも音楽の専門の勉強を6年間はしてきているわけだし、ヨーロッパでのアートマネージメントの実情にも詳しいわけだ。なんと、天下りで管理職に入ったと言うだけでこの人は一日中まったく同じ袋貼りの仕事をして、しかも「料金別納郵便」も知らないで何千枚という発送物にいちいち切手を貼って発送していたのに私の3倍強の、つまり手取り50万近い月給をもらっているのだった。その事実を知った翌日。私は辞表を書いて事務局を後にした。
(続く)
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