やむを得ず、滞在中のブダペストから手書きの答弁書をファックスで東京地方裁判所に送る。日本ショット社は著作権の根拠となる書類を提出し、こちらは納得がいく説明をすれば著作権料は支払うという内容である。しかし、それにしても敗戦国の作曲家の作品に「戦時加算」が適用されるのはやはり納得がいかない。敗戦国の作曲家が連合国の出版社に著作権を売り渡せば「戦時加算」が適用されるものだろうか。しかも、今回の権利関係の移転はシュトラウスのあずかり知らないところで起こっている。ブージー&ホークス社がフュルストナー・リミテッドを買収したのは1943年のことだが、ドイツとイギリスは1939年9月1日から交戦状態にある。ドイツと同盟国であった日本におけるシュトラウスの著作権が1939年9月1日以降もイギリスの出版社に管理されていたとは考えられない。そのようなことがあればすぐに在日ドイツ帝国大使館から猛烈な抗議があったことだろう。ましてやこの時期にシュトラウスは「Japanische Festmusik」のような作品を作曲しているのである。もう一つの疑問ははたしてシュトラウスが演奏権を含めた著作権のすべてを出版社に売り渡したかどうかである。「ナクソス島のアリアドネ」は初稿が1912年に完成し、今日演奏される版に改作が行われたのが1916年のことである。このころシュトラウスはフュルストナー社以外の音楽出版社との関係が極度に悪化しており、その原因は音楽出版社が演奏権に関して出版とは別の権利を認めようとしなかったことにある。このことがベルリンの演劇評論家アルフレート・ケルの毒舌たっぷりの歌詞による1917年の歌曲集「Krämerspiegel(小商人の鏡)」の成立の動機となった。そうだとしたらシュトラウスが出版権以外の「演奏権」をこの時期に著作権とひとまとめにして出版者に売り渡したというのはいかにも不自然である。
第1回の口頭弁論は8月30日に行われたが、私は10月半ばまでハンガリーに滞在していくつかの演奏会を指揮することになっていたので答弁書を提出しただけで出廷しなかった。第2回目は帰国後の10月30日に弁論準備手続(法廷ではなく小さな部屋で裁判官を交えた3者で行われる)が行われたが、ショット社側の弁護士はこのときにやっとシュトラウスとフュルストナー社の契約書を提出し、裁判官から「今までこれを出さずに裁判を起こすのはおかしい」と叱責される一幕もあった。ショット社は1912年にシュトラウスとフュルストナー社の間に交わされた契約書の原文を提出したが、全文の翻訳は添付されていなかった。おそらく古いタイプ打ちの契約書を翻訳業者が読めなかったのだろう。この手の文章、特におんぼろのファックスからはき出されてくるかすれたタイプ打ちの手紙などを読むのは私の得意技である。この契約書はきわめて明解な、口語に近い現代ドイツ語でタイプされたもので、その内容は明らかに私にとって有利なものだった。すなわちその第7条と第8条では以下のように取り決められている。
§7この作品の上演権は、音楽の面からも、台本の面からも全面的になおかつあらゆる国々、あらゆる言語においてシュトラウス博士が保留する。(後略)
§8シュトラウス博士は前記の作品の販売と上演権の管理を作品全体かその一部かにかかわらず、この作品が法的保護を受ける期間内において、また第9項に別段の取り決めがない限り、アドルフ・フュルストナー社に委任する。それゆえアドルフ・フュルストナー社はシュトラウス博士の名において上演権についてそれぞれの劇場らと交渉し、上演権に関する契約を締結し、彼のために上演権料を徴収することとする。(後略)
つまりシュトラウスは上演権に至るまでのすべての権利をフュルストナー社に売り渡してはおらず、上演権の管理を同社に任せていたにすぎないのである。
原告側は反論で『同契約8条に使用されている「ubertragen」(下線は筆者)(注:本当はübertragen)は一般に「譲渡」を意味する単語であり(甲14),被告の主張するような「『作曲家の名において』何らかの役割を任せる」という意味に曲解できるものではない』などとこじつけようとするが、こちらはドイツ語の専門家である。契約書のこの部分の意図するところは明白である。
また、原告が同時に証拠として提出したドイツ・ショット社の代表、ペーター・ハンザー=シュトレッカー氏の書簡には『ドイツ語の"Urheberrecht"は英語の"Copyright"とは異なり(中略)日本の「著作者人格権」という名のもとに言及され、出版社に権利が移転されることはありません』『ここでいう譲渡とは、日本法の下では、この作品のCopyright(著作権)をフュルストナーに譲渡した、ということと同じ意味を持ちます』と記されている。これにより原告の権利がそもそも出版・販売権のみに制約されていることが却って明らかになっている。さらにこの作品のスコアのはじめのページにも“Copyright”と記されているだけで、“All rights reserverd”とか“Auffhürungsrecht vorbehalten”といった記載は見られない。
さらに原告は『また,原告は日本におけるJASRACに限らず,その管理する地域の諸外国の音楽著作権管理団体に本件楽曲の「著作権者」として登録されており,世界的にも原告が本件楽曲の著作権者であることは周知の事実となっている。現に,新日本交響楽団(注:実際は新日本フィルハーモニー管弦楽団)は本件楽曲の演奏に際し,特に原告から要求を受けなくても当然のように上演の許諾を得る手続をとっている』などと主張する。しかし、この件は後になって担当者が事務局長の許可を得ずに独断で許諾申請を行っていたことが発覚する。
さらに不自然で矛盾しているのが以下の一文である。
(前略)『従って,本件楽曲は,作曲したのはドイツ国民であるリヒャルト・シュトラウスであるが,第2次世界大戦中に日本でその上演をするためには,対戦国である英国の法人である原告との間で上演権の交渉をし,許可を得なければならず,作曲家であるリヒャルト・シュトラウス本人を含め,他に許諾をする権利を有するものは日本国内はもちろん,世界中のどこにもいなかった。従って,第2次世界大戦中に本件楽曲が許諾を受けて日本で上演されたとは考えられず,本件楽曲の著作権は保護されていなかったのであるから,実質的にも戦時加算を受けることはなんら不合理なことではない。
被告は,著作権料が旧枢軸国のドイツ国民であるリヒャルト・シュトラウスないしその遺族に支払われることを指摘し,本件楽曲の著作権が戦時加算の対象となることに疑義を唱えている。しかし,前述のとおり第2次世界大戦中に日本国内で本件楽曲の上演について許諾を与えることができたのは対戦国の英国法人である原告のみであり,その結果第2次世界大戦中に日本では本件楽曲の著作権は保護されていなかったのである。従って,日本国内において本件楽曲が上演された場合にその上演料がリヒャルト・シュトラウスないしその遺族に支払われる可能性も,実際に支払われた事実もないのであるから,被告の主張はその前提において失当である』。???
なぜ、演奏されなかった楽曲の著作権が「保護されなかった」のだろうか。許諾を受けずに演奏され続けたのなら「保護されなかった」とも言えようが。
その他にも原告の記述には当初より不正確な記述や誤記、誤訳、誤読が多く(「リチャード・シュトラウス」、「新日本交響楽団」など)原告の語学力や音楽、歴史に関する知識の無さ、商取引上の常識の欠如からしてもその主張は到底信用にあたるとは思えないのである。これでは、原告の送付してくる書類を見たり、原告の手法を見て、原告は外国語や法律の条文を自らに都合の良いように勝手に解釈して、これを元に詐欺、恐喝行為を行っている会社と思われても止むを得まい。
また原告は「しかし、戦時加算の趣旨は、第2次世界大戦に伴い著作権の保護が受けられなかった著作物について、その保護期間を延長することにある」と述べている。まさに原告が述べているように、第2次大戦中我が国でこの作品を(許諾を申請するか否か以前に)演奏しようと試みた者はいなかったが、「許諾を与えるべき著作権者が交戦国の出版社だったために許諾を申請できるような状況ではなく、その為に頻繁に上演が断念されて、本来得られるべき利益が失われた」(遺失利益が存在した)のではない。むしろ、リヒャルト・シュトラウスは同盟国ドイツを代表する作曲家だったため、1940年には皇紀2600年を祝って「Japanische Festmusik」の様な作品も初演されているように、我が国でも演奏されることが多かったのであり、当時の社会情勢からして、もし我が国で何者かが「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しようと考えたならば、敵国の出版社の許諾など受けようとは決して考えず、同盟国のドイツからパート譜を調達したであろう。この作品が当時演奏されなかったのは社会情勢や当時の我が国の演奏家の技術的水準の問題であったと考えられる。従って原告には当初より遺失利益は存在せず、仮に上演権の管理を著作権とは分離した独自の権利として原告が管理していたとしても、そのことは戦時加算の対象とはなり得ない。さらに、著作者である作曲家が原告の権利を実際に承認したのは終戦後の1946年1月であることも原告の提出した証拠によって裏付けられている。従って仮に遺失利益が存在してもそれは作曲家自身であって原告ではない。
(続く)
(続く)
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