演奏が終了すると、予て並川事務長から一方的に発表があったとおりホール玄関での「お見送り」が行われ、その為汗だくになった楽団員達が楽屋から狭い通路をホール玄関に走った。「お見送り」については事務局内部だけではなく、ユニオンからも一切反対意見が聞かれなかったことが不思議だった。京都市交響楽団が財団に移管され、楽団員の身分も財団に出向となったことから何かに意見を言ったりすることが不利益な扱いにつながるのではないかという不安感が楽団全体に満ちている中、楽団員全体に対して相談のないまま決まっていくことが多いように感じた。思えば「楽団員総会」の様なものが行われないのも不思議だった。
私は「お見送り」には反対だったが自分の意見がどうであれ、組織として一旦決まった事は守らなくてはならない。0円のスマイルを湛えて、私は楽団員有志と共にシンフォニーホールの玄関に並んだ。
聴衆の退館が終わって、事務局員や副市長をはじめとする京都市の幹部が指揮者の楽屋を訪ねた。広上淳一はおどけて見せているのか、わざとヒステリックな笑い声を出して一同を迎えたが、私には良く意味がわからなかった。訪問は長くはかからず、ようやく広上淳一と新井音楽主幹、それに私の三人だけでホールを出て福島駅近くの居酒屋に入った。
私は対面に、新井音楽主幹は広上淳一の左側に座った。私は先ずは丁重に挨拶をし、当日のコンサートお疲れ様でしたと述べた。しかし広上はまず新井音楽主幹の当日の「失態」を執拗に責め立てた。楽団員に範を垂れなくてはならない音楽主幹が、演奏会当日楽屋口に座り込んで喫煙しているとは何事か、みっともない、その連続であった。確かにあまり褒められたことではないが、その叱責があまりに執拗なので私は少々不快に感じた。新井氏は私よりも6、7歳広上から見ても5歳ほど年長である。なのに広上はまったく対等に話している。しかも新井氏の肩を何度も叩いていた(もちろん、痛いほどの叩き方ではないがよほど親密な関係でなければ非礼であろうと思えた)。
一頻り叱責が終わると広上は私に「今度はお前の話を聞こう」と言った。私なら年が20歳離れていても(あるいは相手が子供でも)数回会っただけの人間に「お前」とは言わないが、まあそういう人なのだから仕方ない、と思い私は自分の生い立ちなどを語った。広上はしばらく黙って聞いていたが、武蔵野音大でのキンカンの話などになると「俺も東京音大では小便をかけられた」などと自分の苦労話も挟みながら私の話をよく聞いてくれた。しかし、ウィーンで世話になった湯浅勇二氏の話になると、いろいろ湯浅氏をくさすような話を突っ込んできた。
私は湯浅氏とは25年来の知り合いだし、いろいろ世話になったこともある。しかし、湯浅氏に指揮を習ったことはないし(テクニック的な質問をしたり、レッスンを聴講したことはあるが)指揮者としての湯浅氏やその人格をいろいろと批判されても返す言葉もなかった。何故、広上が湯浅氏にそう拘泥するのかはよくわからなかったが、東京音大で指揮を教えていることと何か関係があるのか、湯浅氏の門下からコンクール優勝者が数多く出ていることにコンプレックスでもあるのか、などと考えてみたくもなった。
私の話が終わると広上は「お前も音楽家崩れでいろいろ苦労していることはわかった。しかし新井主幹の方から俺の方にきちんと話がなかった」と一方的に新井氏を非難するような口調になった。私には私を採用するに当たって京都市の内部で、あるいは京都市と広上の間でどのような事前の根回しが行われているのか、あるいは行われていないのかなど知る由もないし(たとえあったとしても新井氏はそういう事を一々事前に教えてくれるような人ではない)そんな事を私を前にして言われても何も言いようがなかった。
広上はその日のうちに東京に戻らなければならないそうで、あまり遅くならないうちに梅田まで広上を送って私と新井氏は京都に戻った。帰りの電車の中で新井氏はいたく不満な様子であった。京都に着くと新井主幹は飲み直そうと私を誘った。
(続く)
私は「お見送り」には反対だったが自分の意見がどうであれ、組織として一旦決まった事は守らなくてはならない。0円のスマイルを湛えて、私は楽団員有志と共にシンフォニーホールの玄関に並んだ。
聴衆の退館が終わって、事務局員や副市長をはじめとする京都市の幹部が指揮者の楽屋を訪ねた。広上淳一はおどけて見せているのか、わざとヒステリックな笑い声を出して一同を迎えたが、私には良く意味がわからなかった。訪問は長くはかからず、ようやく広上淳一と新井音楽主幹、それに私の三人だけでホールを出て福島駅近くの居酒屋に入った。
私は対面に、新井音楽主幹は広上淳一の左側に座った。私は先ずは丁重に挨拶をし、当日のコンサートお疲れ様でしたと述べた。しかし広上はまず新井音楽主幹の当日の「失態」を執拗に責め立てた。楽団員に範を垂れなくてはならない音楽主幹が、演奏会当日楽屋口に座り込んで喫煙しているとは何事か、みっともない、その連続であった。確かにあまり褒められたことではないが、その叱責があまりに執拗なので私は少々不快に感じた。新井氏は私よりも6、7歳広上から見ても5歳ほど年長である。なのに広上はまったく対等に話している。しかも新井氏の肩を何度も叩いていた(もちろん、痛いほどの叩き方ではないがよほど親密な関係でなければ非礼であろうと思えた)。
一頻り叱責が終わると広上は私に「今度はお前の話を聞こう」と言った。私なら年が20歳離れていても(あるいは相手が子供でも)数回会っただけの人間に「お前」とは言わないが、まあそういう人なのだから仕方ない、と思い私は自分の生い立ちなどを語った。広上はしばらく黙って聞いていたが、武蔵野音大でのキンカンの話などになると「俺も東京音大では小便をかけられた」などと自分の苦労話も挟みながら私の話をよく聞いてくれた。しかし、ウィーンで世話になった湯浅勇二氏の話になると、いろいろ湯浅氏をくさすような話を突っ込んできた。
私は湯浅氏とは25年来の知り合いだし、いろいろ世話になったこともある。しかし、湯浅氏に指揮を習ったことはないし(テクニック的な質問をしたり、レッスンを聴講したことはあるが)指揮者としての湯浅氏やその人格をいろいろと批判されても返す言葉もなかった。何故、広上が湯浅氏にそう拘泥するのかはよくわからなかったが、東京音大で指揮を教えていることと何か関係があるのか、湯浅氏の門下からコンクール優勝者が数多く出ていることにコンプレックスでもあるのか、などと考えてみたくもなった。
私の話が終わると広上は「お前も音楽家崩れでいろいろ苦労していることはわかった。しかし新井主幹の方から俺の方にきちんと話がなかった」と一方的に新井氏を非難するような口調になった。私には私を採用するに当たって京都市の内部で、あるいは京都市と広上の間でどのような事前の根回しが行われているのか、あるいは行われていないのかなど知る由もないし(たとえあったとしても新井氏はそういう事を一々事前に教えてくれるような人ではない)そんな事を私を前にして言われても何も言いようがなかった。
広上はその日のうちに東京に戻らなければならないそうで、あまり遅くならないうちに梅田まで広上を送って私と新井氏は京都に戻った。帰りの電車の中で新井氏はいたく不満な様子であった。京都に着くと新井主幹は飲み直そうと私を誘った。
(続く)
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